生化学 SEIKAGAKU
Journal of Japanese Biochemical Society

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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
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Journal of Japanese Biochemical Society 87(5): 499 (2015)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2015.870499

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「生物学の革命」の中からの研究

1大学共同利用機関法人情報・システム研究機構国立遺伝学研究所名誉教授Professor Emeritus, National Institute of Genetics (NIG), Research Organization of Information and Systems ◇ 〒411-8540 静岡県三島市谷田1111番地Yata 1111, Mishima-shi, Shizuoka 411-8540, Japan

2総合研究大学院大学名誉教授Professor Emeritus, The Graduate University for Advanced Studies ◇ 〒240-0193 神奈川県三浦郡葉山町Hayama-machi, Miura-gun, Kanagawa 240-0193, Japan

3法政大学客員教授Visiting Professor, Hosei University ◇ 〒102-8160 東京都千代田区富士見二丁目17番1号Fujimi 2-17-1, Chiyoda-ku, Tokyo 102-8160, Japan

発行日:2015年10月25日Published: October 25, 2015
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科学の営みが堕落し始めたのはいつからであろう.研究の不正が蔓延し,非論理的操作による騙しが日常化し,加えて権力による学問弾圧が易々と科学の現場に浸透し始めたのはいつからであろう.

現代科学の歴史で「生物学の革命」と呼ばれたのは,1960年を頂点とする分子生物学の勃興・興隆期である.大腸菌をモデル生物とした国際的協業によって,遺伝情報の実体,遺伝情報の発現の物質的基盤に関して,いま吾々が共有する現代生命科学の基盤概念の多くがこの時代に成立した.私の研究の原点1960年は,この「生物学の革命」の渦中であった.転写酵素RNAポリメラーゼの発見を研究室ゼミで報告したことを契機に始めた研究を,55年後の今もなお続けるほど夢中になれた攻究課題である.過去を想起すると嘘と美化が紛れ込んでくるのは避けられないとしても,現代生命科学の第一期革命時代,学問の世界には,希望があり,夢があり,研究現場は善意で満たされていた.学問の論理だけが研究評価の基準であり,非論理が排除された聖域であった.懐疑的自覚とも無縁であった.研究で悪事を謀る非科学社会からの参入者を排除する自己制御がはたらいていた.生命科学の革命の真っ只なかで研究に参画し,研究を実施しながら歴史をつくりあげることができた幸せな世代であった.

現代科学における第二の「生物学の革命」は,世紀の転換期,ゲノム構造の解明が契機となった.しかし,最初の細菌ゲノム解明から20年,ヒトゲノム解明から15年で,ゲノム情報が誘起した学問変化の虚像と実像が見え始めた.第二の革命期にあっても細菌はモデル生物として再び脚光を浴びている.それはゲノムに含まれる全遺伝情報の発現と利用の包括的制御と,ゲノムの維持・変貌・進化を分子のレベルで理解できるのは,現代の技術水準でも細菌に限られるという事情に依拠している.大腸菌は細胞ごとにゲノムに絶えざる変化があり,また生存する局所環境によっても細胞ごとにゲノム制御の動態が異なることが判明した.大腸菌が宿主動物体内での生存状態から,多種多様な自然環境での生存状態までのゲノム遺伝情報の包括的発現制御には,約300種の転写因子が関わっている.「ひとつの生物のすべての転写因子」の制御標的を同定し,制御機能の解明を目指した,私の研究も,いま最終コーナーに入った.

しかし,従来の研究結果は,いわば大腸菌集団の平均値に過ぎなかったのである.大腸菌ゲノムの解明を目指した日米双方の集団研究は完成までに10年を要したのに,技術革新によって,いまでは細菌ゲノムの解明に1日も要しない時代になった.医学の世界では,ゲノム解析による細菌感染の病原菌と病原遺伝子の同定によって,感染患者ごとに治療方針を決める技術開発が軌道に乗っている.ゲノム制御を,単一細胞,単一ゲノムを対象として理解する研究が射程に入ってきた.大腸菌の“細胞個性学”は,生命科学の第三の革命の標的である.大腸菌一細胞でのゲノム発現解析システム開発を開始した.

現代生命科学の連続革命の時代はまた,政治との密接すぎる接触による科学の堕落とも同調してきた.研究者は長い間,研究費獲得競争と学術研究に関係しない雑務にうちひしがれた状況におかれ,堕落に直結する誘惑と非論理的怠惰が充満する渦中にある.科学技術が暴走し,地球規模での環境破壊の危機の先鋭化の時代,その激流に逆らうどころか,激流を加速する愚かな高等教育行政,愚かな科学技術の国策で,この国の科学は脆くも崩壊の危機にある.偏狭な愛国心や利己的国益は科学の発展を阻む阻害要因である.この国の研究者はいま,個性を発揮する解放者なることが極めて困難な状況にある.独創性や多様性が低下し,科学研究の国際的研究ネットワークの中核からの脱落が顕著である.科学研究の営みは,平和と民主主義を基盤に成立する.救いは,こうしたささくれ立った時代背景でも,不正に異議申し立てをしながら誠実な科学の営みを目指す知性の武器である.まだ汚染されていない次世代の若者のなかから,誠実に学問研究に没頭する新時代の研究者が生まれ,学問の論理が復権することを期待したい.

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