日本生化学会・JBの創始者The Founder of the Japanese Biochemical Society and JB
女子栄養大学Kagawa Education Institute of Nutrition ◇ 〒350-0288 埼玉県坂戸市千代田三丁目9番21号Chiyoda 3-9-21, Sakado-shi, Saitama 350-0288, Japan
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日本の生化学の基礎を築かれ,その振興に顕著な功績を挙げられた柿内先生を記念した柿内三郎記念特別賞を頂きましたことを大変名誉に思っております.これも日本生化学会理事会,俱進会はじめ学会の皆様方が私の研究にお力添えをして下さったおかげと厚く感謝申し上げます.柿内先生の御経歴で特筆すべき点は生化学の研究教育に重要な学際性と国際性があることです.さらに,指導者に必要な高い先見性によって,今日の日本の生命科学の発展の基盤を作られたのです.今日のような平和な時代ではなく,柿内先生の活躍された大正・昭和前期には二度の大戦や関東大震災があった多難の時代でした.この機会に,東京大学医学部生化学教室の院生,元助手としては先生の御研究と縁が深く,おそらく最後にご指導のお言葉を頂いた筆者が,感謝を込めて,日本生化学会,Journal of Biochemistry誌(JB)の創始の意義から未来の生命科学への方向を探索してみたいと思います.
柿内先生は明治15(1882)年8月14日,柿内信順の三男として東京市麹町にお生まれになり,明治32(1899)年に第一高等学校入学後,明治35(1902)年東京帝国大学医科に進まれました.先生のお言葉によると第一の動機は「13歳の時に重いチフスに罹り医師を志した」由です1).明治39(2006)年に帝国大学医科を106名の同級生中首席で卒業されました.当時は首席の方には天皇陛下から恩賜の銀時計が下賜されるのですが,これは並大抵の努力ではありません.常識的には医学者として歩まれるはずですが,ここでチフスを巡る第二の曲り角に立たれました.ご自身によれば「当時の医学では治療法が不明なので,化学の方法で解明したい」と考えられ1),医科を卒業された後に東京帝国大学理科大学化学科で化学を学ばれました.先生の指導教官は「味の素」の発見で有名な池田菊苗教授で,物理化学を修得されました.これが,先生の幅広い学際性を培われ,生命科学に貢献する基盤となって行くのです2).明治43(1910)年,御卒業と共に東京帝国大学医学部生化学講師となられ,翌々年には早くも,助教授として帝国大学医学部医化学教室の初代教授であった隈川先生を補佐されました.隈川先生は,人体の窒素平衡のご研究で有名な方で,その時に決定された人体のタンパク質必要量は,2015年の日本人の食事摂取基準の数値とほとんど変わっていないのです.科学史家道家達将の記録によると,隈川先生と同じ研究室で背中合わせに研究をしておられた由です3).したがって,当時の柿内先生のお仕事も医化学的で,先生の初期の原著では尿中の脂質の定量を一流国際誌Biochem. Z., 32, 137–144 (1911)に発表しておられます2).さらに隈川教授と共著で大正3(1914)年には「医化学提要」を出版されました.その序文に「学術の発達に自国語を以て編纂せられたる書籍の刊行に待つあること甚だ大なり.」と書かれたように,糖質,脂質,燐脂質などの学術用語は柿内先生の最初の和訳です2,3).このように医化学教室を継承する後継者としての道を進むかのように思われました.
柿内先生が応用科学である医化学から,真理の探究を目指す基礎科学の生化学に大きく進路を変更されたのは,大正4(1915)年からの後述の米国留学で,生命科学の著しい発展を経験されたことです.そこで,チフスを巡る第三の曲がり角に到達されました(図1)2).「チフスの対策は予防医学に移行し,チフス治療法の研究の必要性は減退したため,私の研究熱はそれよりも細胞内生活現象の科学的機序の鮮明に注がれるに至った.」と述べ1),「全ての基本である生の化学でなければだめだ」とお考えになったのです2,3).
生化学は,基礎科学ですから自然の原理,法則を探求するもので,応用科学が行動の指針,例えば医化学が診断法を求めるのとは根本的に姿勢が異なります(表1).先生の色紙に書かれた「虚心観万象」の真意はギリシャ以来の「観照」という自然研究の態度です(図2).これは「永い目で見れば役に立つ」といった日本型基礎科学観とは異なります.事実,日本では医化学の原型は本草学という矮小化された薬剤技術の一部でした4).「生化学の本来の目的は如何なる生機学的機構の存在するところに如何なる生の出現があるかを化学的に攻究するにある」2,3)との柿内先生の真理への情熱は保守的な教授会を説得しました.帝国大学の講座名は勝手に変更することはできませんから,法制局にも呼び出されて説明し遂に決定されたそうです.ここで正式に,1927年に医化学という講座名を生化学と改めて基礎科学の立場を明確にされました2).
講座主任 | 隈川宗雄教授 | 柿内三郎教授 |
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在職期間 | (1891~) 1897~1918 | 1919~1943 |
講座の名称 | (生理学)→医化学 | 医化学→生化学 |
体制の整備 | 医学部講座体制 | 生化学会とJB |
研究の主目標 | 人体代謝学と診断法 | 生命科学の普遍的原理 |
主な研究業績 | 窒素平衡,脂肪酸代謝 | 膜機能,ミトコンドリア |
自著の教科書 | 医化学提要 | 生化学提要 |
基礎生命科学の国際的評価となるノーベル生理学・医学賞受賞者数は2014年現在,米国が97人で,他国は3分の1以下,日本は2人です.受賞者の中心が生化学者ですから,これは偶然ではなく,生化学研究教育体制の先進性によります.この米国の発展初期の体制を柿内先生は大正4(1915)年4月から渡米されて多くの研究室で基礎生命科学を体験されたのです1–3).まずYale大学では組織培養の創始者R.G. Harrisonらに学びました.この組織培養法では後に8名のノーベル賞受賞者を生んだのです.また,現在,驚異的な発展を遂げている発生学についても有名なWoods Hole臨海研究所でウニの発生実験を自ら行っています.この研究所では,日本の長崎大学出身の下村修先生が後にノーベル賞を得ています.Columbia大学ではT.H. Morgan教授に学び,初めてショウジョウバエを用いた遺伝子解析を知り,唾液腺染色体で,それまで仮説にすぎなかった遺伝子の実体を体験されました.その後Morgan教授は1933年にはノーベル生理学・医学賞を受賞しています.さらにJohns Hopkins大学では細胞学を学ぶなど,数校を巡りました.外遊が終わりに近づいたころ,Cornell大学で物理化学をBancroftから学びました.Cornell大学の森と湖に囲まれた美しいキャンパスは,1970年代に留学された柿内先生の令孫の下山ちづ子さんが御著書『イサカ=小さな町のアメリカン』(講談社)でも記され,また筆者も同大学生化学の客員教授を3年間務めました.
こうして生化学のパラダイム4)を直接体験された柿内先生が,「細胞内生活現象の科学的機序の鮮明」化1–3)のために日本へのパラダイム移植を始められたのです.図3にあるように,キリスト教を例にとるとパラダイムを作ったイエスには十二使徒が付き聖書,教会の順に発展するのです.これに対して日本ではパラダイム移植をした宣教師ザビエルが教会という「制度」を作り和訳聖書という「経典」ができてから牧師などの「専門家集団」が育ったのです4).生化学のパラダイムは欧米で始まり,優れた体系を新興国米国が作りました.生化学という単語を最初に使用したのは1903年のC. Neuberg(ドイツ,後に米国)で,柿内先生が初めてBiochemistryを「生化学」と訳されたのです.世界最初の生化学の「専門家集団」は米国生化学会(The American Society of Biological Chemists,創設1906年)で,現在は分子生物学を併せThe American Society for Biochemistry and Molecular Biologyとなっています.これは英国生化学会創設(1911年)よりも5年も早く,ドイツでは生理学からの生化学の独立が困難でした.先述の東大生化学教室が「制度」で,次に必要な「経典」が生化学提要(1929年)でした.そして,「専門家集団」は生化学会で,その機関誌がJBでした2–4).この基盤の上に日本生化学会が大きな貢献をして今日に至ったのです5).
パラダイム移植のもう一つの転機は大正12(1923)年9月1日の関東大震災でした2,5).これは柿内先生の欧州旅行中の出来事で,校舎は焼失し,昭和5(1930)年の今日の医学部1号館の再建まで,仮教室で授業,研究が行われました.この再建教室近代化の過程で海外から大量の機材,図書が輸入され,また多くの教室員が海外留学を経て経験を伝えました2,5).私が院生から助手の頃まで,大量の輸入試薬,例えば硫酸銅の樽(フランスPoulenc社)等が生化学教室の倉庫にあり,教室図書室兼JB事務室と柿内先生の千代田区二番町の立派なご自宅の書庫には膨大な洋書がありました.さらに,パラダイム輸入に必須の生化学用語は『第一次生化学語彙』(1941年)に集積されました2,5).後年,筆者が医科生化学教育委員長として,『日本生化学会編英和・和英生化学用語辞典』(1987年)を現代用語で編纂した時,これが基本となりました6).
大正11(1922)年3月に,柿内先生は型破りの活気に満ちたサークル「東京生化学者宵の会」を結成されました2,3).学会創設の大きな動機は柿内先生の留学中の米国生化学会でした.この会の会員は医・理・農・薬と学際性が特徴で,生化学研究には不可欠の要素ですが,柿内先生が大正8年以降昭和18年の御停年まで,理学部生物化学講座を兼担されていたことが重要でした.専攻分野に関わらず,若い学生も教授も平等に発言して,お互いを「さん」で呼び合い,生化学のトピックスを論じたのです.この会は大震災後間もない1925年の日本生化学会創立に発展しました2,3,5).同年10月31日の本郷佛教青年会館での第一回日本生化学会の会員数は368人,演題数は37でした.日本生化学会は戦時中(昭和19~22年)休会しましたが,学会員の熱意と献身によって,昭和40(1965)年の社団法人化を経て,平成2(1990)年には会員数は1万人を超え,大会出席者も5千人を超えて,日本の基礎科学の大きな学会に発展しました2,5).柿内先生が念願された学会員の学際性は,初期には医学系の比率が多かったものの各学科に分布し,1995年には医学(含む歯学)30%,理学25%,薬学22%,農学(含む工学)19%,他4%でした.また,会員も全国に分布しています6).先生の教育改革論でも学生はどの学科の講義も学べるようにしたいと主張されていました2).
上記の宵の会と同じ頃に柿内先生は,東大山上会議所で月1回,教官,学生約50名程度で斎藤茂吉や後藤新平など各界の一流人に講話を伺う俱進会を開いていました2).「進んでいる人の話によって俱に啓発し大自然に順応する(俱進の辞,大正13年)」俱進会は先生が御停年の昭和18(1943)年には財団法人となり,理事長として御停年後の活動の場として主に教育界の方々のご意見を広められました2).10年前から,山川民夫教授のご配慮で俱進会は柿内三郎賞を日本生化学会の優れた生化学者に授与する制度ができました.
柿内先生は大正11(1922)年1月のJB創刊の経緯を「当時,日本の生化学は教育的段階から研究段階に移りつつあり,研究論文の数は次第に増加しつつあった.(中略)欧文をと考えたのは,外国に見せても恥ずかしくないようない価値のある論文だけを書くべきだ.」と述べておられます2,3).この英文誌のパラダイムの源泉は世界最高と評価されるJournal of Biological Chemistry(JBC,1905年創刊)でしたが,これはBiochem. Z.やBiochemical Journalより早かったのです.JBは様々な曲折を経て,先生が自分独りで責任を負うからと自ら編集長となり,学際的に各分野の長老に編集協力者になって頂いたのです(図4).創刊号序文に柿内先生は「May this little “Journal of Biochemistry” have a prosperous future and be a contribution, though small, towards the promotion of the true knowledge.」と書かれました2,3).柿内先生自ら22年間も編集長として,冗長な論文を訂正し,活字を拾う旧式の印刷は校正を5回も繰り返しました2).この間ロシア10編,中国7編,米国6編等の外国からの投稿を受理しています.柿内先生はJBの国際評価について,欧州視察旅行の際に同誌の論文が抄録誌Berichteに引用されたのを大変喜ばれました7).日本生化学会会報には国際性が無いとして原著を受理しませんでした.昭和19(1944)年に戦時のためJBは36巻で休刊となりました.戦後,児玉桂三教授により昭和25(1950)年37巻から現在のJBが復刊されました.生化学会員も多く,JBの頁数も過去最高に近い1993年1~6月中に日本の生化学者が投稿した原著誌は,筆者が東京支部の編集長を務めていたBBA(146編),村松教授と筆者らがEditorのBBRC(142編)に続いてJB(117編)でした6).
今から約1世紀も昔の柿内先生の御研究は現在も有意義でしょうか.むしろ論文の真価は長期間を経て定着するものです6).我が国のATP合成酵素のリン脂質小胞の再構成の研究はP. Mitchellのノーベル賞記念論文にその実証的実験として引用されています8).その基礎となった柿内先生御自身のミトコンドリアの呼吸のリン脂質要求性の含水アセトン抽出後の再構成実験[J. Biochem., 7, 263 (1927)]は(図5),その約35年後にS. Fleisherによって用いられました[Methods Enzymol., 126, 185 (1986)].また生体膜の基本となる表面膜の研究もしておられます.これらは先生の驚くべき先見性です.生化学教室同窓会の帰路に先生をお送りした折に,このお話を伺う機会に恵まれました.当時,酵素学に取りつかれていた世界の研究者達が酸化的リン酸化の化学説の実証に失敗していた時に,Mitchellは生体膜の電気化学ポテンシャル差がエネルギー伝達手段であるという化学浸透圧説を1960年に提唱したのです.当時,院生であった筆者は柿内先生の方法をコール酸透析小胞再構成法に改善し,遂に化学浸透圧説の実証に成功したのです8).1979年の第11回国際生化学会議がカナダのトロントで開かれ,第一シンポジウムBioenergetics and Transportで前年にノーベル賞を受賞したMitchellに続き私が「Reconstitution of transport systems using thermostable biomembranes: Crystalline ATPase and role of subunits」と題して,膜構造の再構成によって膜の水素イオン輸送と,その中核であるATP合成酵素の結晶化を報告しました.おそらく柿内先生の先駆的研究が最も輝いた瞬間ではなかったでしょうか.さらに第12回国際生化学会議では膜電位でサブユニットから再構成したATP合成を証明して新パラダイムを決定的なものとしたのです8).
日本生化学会の会員数は平成27(2015)年7月に8429人と1996年の13,113名に較べて64%に減少し,JBの2014年の年間総頁は744頁で1994年の2596頁の29%に減っています.同年の論文数は僅か70編で,しかも引用数の多い上位10編の中で9編は総説です.Impact factor(IF)は2014年のJBのウェブサイトによると2.5で,後に発足した分子生物学会のGenes to Cellも2.8と低迷しています.SCOPUS誌によると国別論文発表数は1998年には世界2位(1998)でしたが,2008年には5位に転落したという日本の科学全体の低迷もあるでしょう.
この様子を見て柿内先生なら「今こそ発展の好機である」と話されるはずです.事実,白髪の先生は生化学教室同窓会の席で何回か講話をされました.島薗順雄教授の当時,酵素学は代謝経路と酵素同定を終えて危機に陥っていったのです.そこで,同窓会で上代淑人先生がB.L. Horecker教授の「酵素研究者にとって大事なことは酵素学を止めることである」という発言を引用したところ,柿内先生は「研究の行き詰まる時こそ発展の好機である」と話され皆を励まされました6).隆盛を極めた酵素化学シンポジウムも『蛋白質核酸酵素』誌も姿を消し,代わって発展の好機を迎えたのが細胞生物学でした.現在のIFで判断すると新分野を開拓しているNatureは41.4,Cellは32.2と高いのです.酵素学も遺伝子学も大筋は終わりましたが,この厖大な知見の集積こそ,新しいパラダイムの基盤を作る好機だからです.現在発展中のiPS細胞,EWASやゲノム編集は先行研究のデータを利用して医学部一号館でも進行しています.
昭和42(1967)年に,柿内先生の念願された国際化の努力が実り,第7回国際生化学連合会議が東京で成功裡に終わったのを喜ばれて後,同年12月24日,柿内先生は85歳で世を去られました.教室の助手であった筆者も同窓会の皆様と共に御霊をお送りし,先生は護国寺に眠っておられます.先生は喜多流の能楽を愛好され,歌も詠まれました2).先生の基礎生命科学への情熱と研究の喜びは,在職25年の折に詠まれた短歌「嬉しさは我のみそ知る天地の心の奥を尋ね得し時」に現れています2).生化学教室の教授として御退官まで24年間,日本生化学会とJBの発展の礎石を据えられた柿内先生の御功績を讃え,謝恩の誠を捧げたいと思います.
1) 柿内三郎(1958)問われるままに,蛋白質 核酸 酵素,3, 478–481.
2) 島薗順雄(1985)柿内三郎先生伝,生化学,57, 1501–1502.
3) 道家達将(1964)柿内三郎と日本の生化学,自然,19, 110–116.
4) 中山茂(1974)歴史としての科学,pp. 1–302,中央公論社.
5) Shimazono, N. (1992) The history of the Japanese Biochemical Society from 1925 to 1990. J. Biochem., 122, S3–S18;島薗順雄(1991)生化学,63, 1087–1131.
6) 香川靖雄(1997)隈川,柿内両先生と日本の生化学の百年の評価(東京大学医学部生化学教室創設百周年記念誌),pp. 241–256,東京大学医学部生化学教室創設百周年記念会.
7) 竹田正次(1985)柿内三郎教授欧州視察随行記および追想記(上),日本医事新報,3189, 59–61.
8) Kagawa, Y. ATP synthase: from single molecule to human bioenergetics. (2010) Proc. Jpn. Acad., Ser. B, 86, 667–693.
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