Online ISSN: 2189-0544 Print ISSN: 0037-1017
公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 88(1): 1 (2016)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2016.880001

アトモスフィアAtmosphere

進化圧と評価

名古屋大学大学院生命農学研究科教授

発行日:2016年2月25日Published: February 25, 2016
HTMLPDFEPUB3

高校生の時,生物部に所属していた.南アルプス前衛の櫛形山というところでチョウの分布を調べていた.スジグロシロチョウとエゾスジグロシロチョウというよく似たチョウが,狭い範囲でも棲み分けをしているという報告をしたように覚えている.「棲み分け」という言葉を学校で習った記憶はないから,何かで読んで気に入ったのだと思う.この棲み分けという概念はサイエンスとしてはどのように位置付けられているのだろうか.チョウを追っていた頃から15年ほどたって読んだ「今西進化論批判の旅」の著者であるホールステッド先生は,今西錦司に会う前にはこれをルイセンコ学説と同様のものだと思っていたようだ.数年前に,チョウの研究家としてもご高名な名古屋大学名誉教授の高橋昭先生(神経内科学)のご講演を伺った.先生は,概念は自明なこととして,ご自身が調べられたギフチョウとヒメギフチョウの棲み分けについて語られていたように思う.棲み分けの実例を示したくて始めた分布調査であったが,高橋先生の長年にわたる真摯なご研究に比べて,夏休みの数日を費やしただけのスジグロシロチョウのデータにはほとんど価値がない.ただ研究のまねごとをしながら,一生こんなことをして過ごせたらどんなにか素晴らしいだろうと思ったことは,その後の進路の動機付けになったように思う.

それから40年たった.大学は以前考えていたような牧歌的な所ではなかったが,研究と教育をなりわいとしていられることを感謝しなければいけないと思っている.ところで昨今大学は評価,評価と喧しい.大学評価の専門家であった喜多村和之先生は,大学評価・学位授与機構が設置されてまもない2003年に出版された本の中で,大学評価で問われるべき「質」として「大学の学部・学科の教育目的ないし研究目的にいかに合致するように達成されているか」を想定されていた.本格的に大学評価が始まった当初は,当然ながら「研究と教育」が評価の対象であり,評価法の妥当性が主要な関心事であったように思う.一方ここ数年,研究と教育以外にも様々なミッションが大学に求められるようになってきた.こういったミッションについては期限と数値目標が立てやすいため,「研究と教育」よりは評価が容易である.評価が資源の配分に直結する状況下では,評価を受ける方としてはこのようなミッションを優先することになる.現在の大学評価は,評価というよりは大学が何か従来とは異なるものになることを促す進化圧といった方が適当かもしれない.

さて筆者の大学が掲げる評価項目(達成すべき目標)の一つに英語で行う講義の数がある.昨今は英語が通用することがその国の資源の一つと考えられるから,それに資する人材を育成するという点では,これは教育評価の範疇に入るものであろう.ただ物理化学の講義を行っている筆者としては,眼前の日本人学生にとって英語に習熟することとサイエンスを学ぶことがトレードオフになってしまうことに危惧の念を抱いている.手元に国立情報学研究所の新井紀子先生のインタビュー記事があるが,人工知能(自動翻訳機)の発達によって10年後には英語教育自体が不必要になるかもしれないと述べておられる.コミュニケーションの道具としての英語は誰でも使えるとなった時代のことも,どこかで考えておく必要があるのではないか.

自然科学の概念を社会的な事象の解釈に安易に援用することは時として滑稽であろうし,社会的ダーウィニズムがT4作戦にまで連なってしまったことを考えると危険でもある.重々承知の上で戯言を述べるが,さしずめ現在の英語の奨励は進化圧であり,将来人工知能の発展で英語教育が不要となればそれは環境の急激な変化に相当する.生物は進化圧のもとでも棲み分け等により種の多様性を確保し,Hsp90によって変異を密かに蓄積することで急激な環境の変化に適応してきたと言われる.現場において個々の学生に対峙し,教育と研究に実際の責任を負う末端の教員としては,学生やこの社会が将来の環境変化に対応できるように働く進化的キャパシターとならねばと思っている.

This page was created on 2016-01-06T17:31:27.166+09:00
This page was last modified on 2016-02-18T13:42:43.968+09:00


このサイトは(株)国際文献社によって運用されています。