〈まだわかっていないこと〉を
京都産業大学総合生命科学部教授.同タンパク質動態研究所所長.京都大学名誉教授
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京都大学を定年前に退職して,いまの京都産業大学に移ってきたのは6年前になる.京大では研究所(再生医科学研究所)にいたので,教育のdutyはほとんどないに等しく,研究室で付き合う学生は大学院生に限られていた.いまは学部生との付き合いもそれなりに増え,学生が抱えるさまざまの問題も間近に感じられるようになった.
教育ということについても,実はこの大学に移って学部長をやるまでは,まことに無知というに等しく,シラバスという言葉さえ知らない情けない状態であった.そんな素人が言うことだから,いい加減なことだが,素人だからこそ大学における教育について,自ら大切にしている拘りもある.その一つは,高校までのいわゆる初等中等教育と,大学における教育とははっきり分けて考えるべきだという点である.
高校までの教育では,答えは必ず一つあり,一つ以上はないというのが前提であった.答が二つもあったり,逆に答がなかったりすれば,それが入試であれば,即,謝罪会見ということになろう.高校生や受験生は,問題があれば,そこには〈必ず〉答えが一つあり,二つ以上はないという前提のもとに,安心して解答に辿り着く訓練を続けてきたのである.
大学の新入生は,過去十数年にわたって,一貫してそのような環境下で,問題を与えられてきた者たちである.高校生のかなりの割合が大学に進学する現在の状況では,大学で教育を受けることを当然のことと考え,高校時代とどう違うのか,あるいはどうあるべきかと言った問いを持ちつつ講義を受けている学生は,残念ながらきわめて少ないと言わざるを得ない.これは国立,私学に共通する傾向である.
私は,わかっていることよりは,まだわかっていないことを教えるのが,大学における本来の教育だと思っている.これでは言語矛盾であろう.わかっていないことを教えることはできないのだから.正確に言えば,ここまではこれまでの研究からわかっているが,ここからはまだわかっていないという,既知と未知の境界を実感させる,そこにこそ大学教育の本質があると信じるものである.
わかっていることは教科書に書いてある.教科書に書いてあることを教えている限りは,学生は高校までと同じ安心感のなかで,教えられ,与えられる知識をしっかり受け止めよう,理解しようとするだろう.それ自身は大切な学習態度ではあるが,そこに「教えてもらうことは正しいものであり,誰かが必ず答を知っている」という,それまでの知識享受の態度がそのまま顔を見せるとするなら,その事実の向こうへ質問を投げようとする積極的な意欲にはつながらない.
私は大学という教育の場では,本来は「まだわかっていないこと」だけを語りたい.しかし,「まだわかっていないことを理解するためには,すでにわかっていることも少しは知っていてもらわなければならない.」だからしばらく我慢して,既知の教科書的な知識も聞いてほしいと言うことが多い.
なぜそのような「まだわかっていないこと」が大切なのか.スペースの関係で,いきなり結論的なもの言いになってしまって恐縮だが,それは学生一人一人が,自分で〈問〉を発することこそが大学における教育のもっとも大切なことだと思うからである.誰かが答を知っているという場では,進んで〈問〉を自ら発して考えようという態度はとれないものである.卒業して社会に出ていくのに,実社会においても誰かが正解を知っているはずと思いこんでいる学生が居るとしたら,怖しいことだ.社会では誰も正解を知らない問題の方が圧倒的に多いのである.
「ここからはまだわかっていない」と言うことによって,学生の目の前には,未知の,〈問〉に充ちた地平が拓かれるはずである.それを実感してこそ,学問に対する本来の興味と意欲が湧く.
ここまで私は敢えて教育の場における〈問う〉ということの大切さのみを述べてきたが,実はそれをそのまま研究という場にパラフレーズした時にこそ,その〈問う〉という能力の差が,個々の若い研究者の伸び方にダイレクトな相関を持つと感じるのである.答をうまく引き出す大学院生がそれなりに伸びていくことは間違いないが,ほんとうに優れた研究者になるためには,隙間なく埋められているかのような既知の事実の石畳に,如何に鋭い〈問〉を以て隙間をこじ開けられるか,亀裂を打ち込むことができるかにかかっていると思うからなのである.問うという作業は,答えを出すという作業以上に,常に困難なものである.
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