「きれいな」生化学:定量的視点へのこだわり
東京大学大学院薬学系研究科教授 ◇
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この2016年度をもって定年退職するが,人生の契機は,1973年に恩師宇井理生先生から頂いた北大・薬の卒業研究であった.これが幸いにもGiの発見へと繋がり,その後もGタンパク質に魅せられて40年以上,飽きもせずにこのファミリーを追い続けた.この間の実験科学を通じて培われた一生化学者のこだわりを,以下に紹介したい.
私が実験を始めた当時の研究室では,宇井先生が「汚い」生化学と称したin vivo実験によって,ホルモンによる糖代謝制御の研究が進んでいた.ラットに様々な「負荷」を与え,負荷なしの対照とで,アドレナリン作動性αとβ受容体の両作用が比較された.先輩が扱った負荷は,血漿pHの変動,寒冷暴露あるいは強制運動などであったが,私が担当したのは“百日咳ワクチン”投与で,これによりアドレナリンの血糖上昇作用が劇的に消失した.この消失は,膵臓からのインスリン分泌応答が著しく亢進したためで,ワクチン投与は糖尿病モデルラットの高血糖をも改善した.
その後,百日咳菌培養液から作用因子として“百日咳毒素”が精製された.私は毒素の作用機序を知りたく,個体から膵臓,膵島,細胞系,さらに細胞抽出液の無細胞系へと,in vitro実験:「きれいな」生化学を推し進めた.主犯である毒素の作用を無細胞系で再現できれば,システムに介在した共犯を見出せると考えたからである.この主犯の罪状は,結果的にはコレラ毒素と同様な,共犯:NADを基質とした「ADPリボシル化反応」であったが,コレラ毒素で登場しない第2の共犯:ATPを見出した.毒素分子が侵入後に細胞質に出て,ATPで活性化される必要があった.余談になるが,細菌が宿主のシステムをハッキングする方策は実に巧妙である.コレラ毒素基質Gsとは異なり,百日咳毒素基質であるGiの機能は幸運にも多様であって(標的とする効果器が多種存在し),三量体Gタンパク質の役割は大きく広がった.
学位取得後の1982年に,タンパク質の精製を学びたくGsの精製を手掛けていた米国テキサス大のGilman研究室に留学し,毒素の基質Giを精製した.これまで生きた細胞でしか観察できなかったホルモンによるcAMP産生が,目的の精製タンパク質をリン脂質小胞に再構成した舞台で再現されることに驚きを覚えた.受容体,Gタンパク質,効果器という役者達の「数と立ち振る舞い」(酵素反応論でいうKm,Vmax及びアロステリック制御の視点)から,舞台演劇が進む(システムが機能する)のであり,定量性をもった「きれいな」生化学は,細胞膜を介するシグナル伝達系の理論的支柱となった.
その後1987年に東工大・生命理工,1993年からは東大・薬にて研究室を主宰し,存在様式や性状が特異な諸種のGタンパク質の解析を教室員と共に進めた.アイソザイム(KmとVmaxが異なる)のように,個々のGタンパク質の特性(ヌクレオチド結合特性や回転速度)には大きな差異があること,さらに意外な生理機能にも個性豊かなGタンパク質が介在することを見出せた.今後共同研究者らによって,それらのGタンパク質の個性がシステムに意義付けされることを期待したい.
最近は役職からも離れ,自身で実験を少し楽しんでいるが,手法の改良・工夫や定量的センスに欠ける学生が増え,彼らの手腕がどこに発揮されているかを見出し難いのが気掛かりである.また,相互作用分子の同定によく利用される免疫沈降実験の解釈にも不安を感じる.抗原と共沈降した分子の量(全体量に占める割合)や両者の結合親和性という定量的視点への配慮が少なく,これでは生理的意味が怪しい.一見便利な測定キットを多用して,中身や原理を理解しない弊害からであろう.色々と苦言を呈したが,自身の実体験で得た「実験に際しての教訓」を以下に簡単にまとめたので,意とするところを汲んで頂ければ幸いである.
1)目標・課題設定を必ず明確にする(どんなに小さくてもよい).2)多様な実験手法・階層を追求する(どれかは解決策となる).3)労を惜しまずに,観測点を広く,必要に応じて細かく取る(協調性によってミカエリス・メンテン型の用量–作用曲線から解離するなど,隠れた真理を見逃さないために).4)目標・課題の達成度を自身の尺度で評価する(自己満足でも良いから自信をもって達成感を味わう.ボスの視点と異なっても良い).5)自身が成熟すれば,自ずと欲が出て目標・課題は高められる.
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