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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 90(6): i-ii (2018)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2018.90.6.i

追悼追悼

生化学を牽引した山川民夫先生,逝く

1東京大学名誉教授

2お茶の水女子大学名誉教授

3医学中央雑誌刊行会

4学術著作権協会

発行日:2018年12月25日Published: December 25, 2018
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Journal of Japanese Biochemical Society 90(6): i-ii (2018)

生化学者として数々の優れた業績をあげられた山川民夫先生は2018年10月7日,96年にわたる輝かしい人生の幕を閉じられました.

先生は1921年10月19日に東北帝国大学医学部内科の初代教授であった山川章太郎氏の次男として生まれ,第二高等学校を卒業されるまで仙台で過ごされました.父上は28歳の若さで教授に抜擢された立派な方であり,非経口的栄養として脂肪を細かいエマルジョンにして静脈に注入する,という世界で最初の研究をされた医師・研究者でもあります.このことが山川民夫先生を脂質生化学の研究へと導く一因になったと思います.

先生は兄上も順天堂大学の内科教授になられたという医師の家系で育ち,学生時代から基礎医学を志望されました.休暇には港区白金台にある東京大学の伝染病研究所(伝研,現在の医科学研究所)に出かけられ化学研究部で実習生活を送られました.この研究室は薬学部生薬学教室の教授が主宰されていましたので,物質の構造に基づいて体内の反応を化学の目から考えるという,先生の一貫したスタンスはこの時の体験から身についたのではないかと思います.

医学部を卒業後に伝研に入って最初に行った研究は分枝鎖脂肪酸に関するもので,ウサギに分枝鎖脂肪酸を注射して代謝産物の二塩基酸を分離することによりオメガ酸化が行われたことを明らかにされましたが,この研究は日本生化学会が刊行しているJournal of BiochemistryJB)に掲載され,先生の学位論文にもなっております.分枝鎖脂肪酸ということでは,のちに私が行ったゴールデンハムスターのハーダー腺の雌雄差の研究で,分泌脂質に見られる雌雄差がその構成脂肪酸の違いによるもので,雌では分枝鎖脂肪酸であるのに対し,雄では直鎖脂肪酸であることを機器分析で示すことができました.この時の深い感動は今でも覚えています.

先生はその後,誰もやったことがない教科書に載るような仕事をしたいと思い立たれ,当時の伝研でウマの抗血清を得た残りの血餅が大量に廃棄されているのに目をつけて,これを溶血した後に弱酸性にして赤血球膜を集めました.乾燥血球膜として約2 kgを集められたそうですが,ここから凝集反応の特異性抗原が糖脂質であることを示し,ヘマトシドと名づけられました.糖とノイラミン酸を持ったガングリオシド(GM3)の発見です.この研究もJBに掲載されております.

また,ヒトの血漿を扱っているブラッドバンクから不要になった赤血球を何十リットルも入手して,ABO式血液型物質が糖脂質であることを明らかにし,グロボシドと名づけられました.この一連の研究に対して1955年に第1回の生化学会奨励賞が授与されました.先生は捨てられたごみの山から金か石油を掘り当てたようなものだとおっしゃっていました.私もゴールデンハムスターの研究を行った時,先生にならって薬物の検定に使っていた研究所で毎週処分する100匹のゴールデンハムスターをもらい受けてハーダー腺の実験をして数多くの論文を発表することができました.

先生が伝研から本郷の東京大学医学部生化学講座の教授として着任されたのは1966年4月ですが,私もこの時に大学院に入学したので医学部における先生の最初の大学院生ということになります.それ以来,1982年に先生が東京大学を退官されるまで16年の長きにわたってご指導を受けてきました.

最初に教えていただいたのはシリカゲルのカラムクロマトグラフィーで精製した脂質を赤外線分光光度計(IR)やガスクロマトグラフィー(GC)を用いて分析することでした.後には核磁気共鳴(NMR)装置やGC-質量分析計(MS)も導入されましたが,私はこのGC-MSを用いて脂肪酸合成の機構解明を行い,この研究で先生の推薦を受けて1978年に生化学会奨励賞をいただくことができました.

先生は1982年に25年間在籍した東京大学を退官されましたが,その後の36年間は,東京都臨床医学総合医学研究所では所長(1982~1991年),次いで東京薬科大学の学長(1991~1994年)を務められ,2002年から2011年までは微生物化学研究会の会長としてそれぞれの組織改革を推進してこられました.また1987年から亡くなられるまで31年間は日本学士院会員となられ,ことに2004年から10年間にわたってProceedings of the Japan Academy, Series BPJA-B)の編集委員長として同誌の国際的な地位向上に尽力されました.

このような研究者や教育者としての業績以外に,先生は日本生化学会のために多大な貢献をされました.

先生は東京大学医学部において生化学講座の教授になってからはJB誌の編集委員長として論文受付から刊行までの期間の短縮や,厳格な審査制度を確立されて一流誌としての道を開かれました.先生の研究業績の90%以上はJBに出されております.

和文誌「生化学」は1948年9月に改称して発足し,原著論文も掲載されてきましたが,先生は1976年に新たに組織された企画委員会の委員長として原著論文を廃して紙面の刷新を行い,会員が親しみをもって読むような雑誌へと展開されました.

また日本生化学会では図書の刊行もしてきましたが,企画の多くは先生の主導で行われました.本会創立50周年の記念事業としては「生化学実験講座」全16巻30冊と別巻総索引(1974~1977年),続いて続巻全8巻16冊(1985~1987年)が出版されましたが,いずれも先生が編集委員長を務めておられます.これらは生化学全般をカバーしながら,基礎的な実験法をそれぞれの専門家が執筆したもので,日本の生化学研究の発展に大きく寄与しました.さらに実験の計画・実施に必要なデータを集めた「生化学データブック」も先生が編集委員長として,1979年に第Ⅰ分冊,1980年に第Ⅱ分冊及び代謝マップを刊行しております.

先生は生化学第二講座の開設にも尽力されて1974年に新設が文部省から認可されました.そこで先生の脂質を化学的に追及する研究領域とは相補的なタンパク質や物理化学に詳しい今堀和友先生を初代教授として迎えられました.私たちは1981年,1982年と相次いだお二人の退官を記念して「生化学辞典」をつくりました.両先生を監修者として1984年に初版が刊行され,数年ごとの改定を経て2007年には第4版が出されましたが,これは20,000項目を超える用語について解説した画期的な辞典であります.生化学会の刊行物ではありませんが,延べ2,000人もの生化学者が執筆に参加されたのは,先生の人徳のなせる業と思います.

「生化学」という言葉はドイツ語のBiochemie(英語ではbiochemistry)を訳したものです.この言葉には生化学は生命現象を化学的に究明する学問という意味が込められております.先生ご自身が研究を行われた伝研の化学研究部と本郷の生化学講座で教授として過ごされた23年は正にこの言葉に象徴される生化学の良き時代でありましたが,先生が全力で生化学を牽引してこられたことに深く感謝いたします.

先生の生涯の功績を称え,亡くなられた平成30年10月7日に正四位(しょうしい)に叙位されました.

ご略歴

  • 1921年宮城県仙台市に生まれる
  • 1944年東京帝国大学医学部を卒業
  • 1947年東京帝国大学伝染病研究所化学部助手
  • 1951年医学博士(東京大学)取得
  • 1957年東京大学伝染病研究所助教授
  • 1959年同教授
  • 1966年東京大学医学部に配置換え,生化学講座教授
  • 1982年定年退官(東京大学名誉教授),東京都臨床医学総合研究所長(~1991)
  • 1987年日本学士院会員(~2018)
  • 1991年東京薬科大学長(~1995,東京薬科大学名誉教授)
  • 2002年微生物化学研究会会長(~2011)

受賞歴

  • 1955年日本生化学会第1回奨励賞(糖脂質の生化学的研究)
  • 1967年山路自然科学賞
  • 1971年内藤記念科学振興賞
  • 1974年朝日賞
  • 1976年日本学士院賞
  • 1991年東京都文化賞
  • 1991年勲二等瑞宝章
  • 1995年ゴールデンスフィンクス賞
  • 2014年文化功労者

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