X線構造は信頼できる?!
姫路工業大学名誉教授
© 2018 公益社団法人日本生化学会© 2018 The Japanese Biochemical Society
生化学は一般的な意味で要素還元型の研究分野であると思っています.まず研究対象の生体物質のキャラクタリゼーションから始まります.もっとも基本となるその物質の立体構造が解明されれば,研究の足場が固まると言えるでしょうか? X線結晶構造解析はその情報を提供します.長年この分野に身を置いてきた者の一人として,揺るぎない構造を提示できることをひそかに誇りに思っています.結晶からの数十万,数百万という回折スポットを観測して,それに適合する構造を導き出します.観測値と計算値の誤差が最小になるように計算を進めます.その一致の程度に系統的な偏差がなければ正しい構造であると考えます.したがって研究者の主観によって結論を誤ることは基本的にはあり得ません.間違ったX線結晶構造が報告された例がないかと言えばそうではありませんが,X線結晶構造解析は,昨今の生命科学分野において稀に起きている,証明に足るデータが得られていないのに,仮説を信じてしまいたくなる誤りを生む事情とは一線を画すると思っています.
酵素学の分野では,X線結晶構造解析の結果が反応機構の解明に大きい寄与をしています.たいていの生化学の教科書で取り上げられているリゾチームとセリンプロテアーゼについて,はじめに酵素の結晶構造が報告され,判明した活性部位の構造に基づいてそれぞれの反応機構が提唱されました.それが,その後の検証を経て生き残ったか,と言えばそうではありません.セリンプロテアーゼの場合では,最初に提案された電荷リレーの機構は,全く否定されたとは言えないまでも,大きく改訂されました.提唱された機構を検証するために,関連する多くの酵素,そして阻害剤,基質類似物質との複合体の結晶構造解析が広範に行われ,生化学的,物理化学的な知見と併せて現在広く認められている反応機構が確立されました.このように見てくると,最初の構造とそれに基づいて提唱される機構は研究の契機に過ぎないのである,ということだと思います.構造はその時点での技術的な水準で正しいのですが,その後語られることにも注意していただく必要があり,最初に報告された構造に基づく機構がその後の研究で修正されたとしても,X線構造が間違っていたとは考えていただきたくないのです.
それにもかかわらず,とんでもないことが起こることがあります.21世紀の初頭に細菌のリポ多糖を担うABCトランスポーターであるMsbAの構造が報告されましたが,それが間違っていました.それをもとに組み立てられたいくつかの構造も誤っていました.数年後になって正しい構造が報告され,もとの論文は撤回されました.関連した5報の論文が撤回され,Penta-retractionなどと報道され話題になりました.詳細を述べませんが,結晶構造解析の常識からすれば,危ない橋を渡る解析を行って,そのため誤った構造を導いたものです.結晶学のコミュニティ内部では,その原因は追究され解明されています.しかし野心に満ちた若い研究者が勇み足をするというような事案であったと考えられ,無謬を誇る結晶解析の分野で起こったことは衝撃的でした.話題性を求める科学ジャーナリズムがこのような傾向を助長するのでしょうか.
しかし,多くの結晶構造解析の分野の研究者は,このような例外を除いて愚直に正しい構造をひたすら求めて日々の仕事を行っていることを認めていただきたく,ここに一文を記した次第です.
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