生化学者の地動説
理化学研究所光量子工学研究センター副センター長,生細胞超解像イメージング研究チームチームリーダー
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2018年9月に京都で開催された第91回大会の懇親会の席で,日本生化学会名誉会員に推薦をいただいた.11月の総会で承認されれば,とのことなので,この原稿を書いている時点ではまだ正式に決まったわけではないが,大変名誉なことであると考えている.いや,正直に言うと,事務局長の渡辺さんからご連絡をいただいたときには,私はまだ現役で,引退なんかしませんよ!とちょっとムキになってしまった.名誉会員と言うと,もう現役を退き,年金生活でも学会には参加していたいという方,というイメージがあって,それにはまだ早いのですが……と思った次第である.ただ,どうやらこれまでの慣例で,生化学会の会長または会頭の経験者は,65歳を超えると名誉会員に推薦されることになっているらしい.これからはどうか寄付をお願いします,とのことであった.
それはさておき,「生化学」の巻頭言を,というのも重たい依頼である.自分は何者かと考えてしまった.私は理学部生物化学科の出身であり,自分でピペットマンを握っていた研究者人生の前半は間違いなく生化学者であったと思う.酵母を扱うようになって遺伝学の面白さにもはまり,専門は遺伝生化学であるという言い方をしたこともあった.しかし,これまでをトータルで振り返ってみると,やはり一番適切なのは細胞生物学者という言葉なのだろう.研究者人生の後半は,細胞内の現象を生きたまま見たい!という衝動にかられ,ライブイメージング顕微鏡の開発という思わぬ方向に突き進んできた.
物理学のように,理論がまず作られ,それを実験で実証する学問では,理論が美しいかどうかでまずは評価が決まると聞いたことがある.それに対して生物学では,1+1が2であることを証明するのに,1+1は1ではない,3ではない,4ではない,という反証を泥臭く挙げていって,そろそろもういいかなというところで,だから2である,という結論に至る.賛同しかねる方もおられようが,少なくとも生化学的なデータからモデルを作り上げる過程は,多少なりともそういうところがある.どうやっても否定できないときにその仮説は正しいということになるらしいが,どうやっても否定できないことを実際に証明することは不可能に近い.そもそも全ての可能性など思いつけないに違いない.あるモデルを提唱してみて,複数の研究グループが同意したときにそのモデルが定着する,というケースが多いのではないかと思う.しかし,それでは説明できない!という実験事実が出てきた場合,しばしば大きな論争になる.
私が専門とする細胞内膜交通(小胞輸送)の世界でも,歴史に残る大論争がいくつかあった.ゴルジ体の中をどのように分泌タンパク質が移動していくか,という問題もその一つであるが,ニュートラルな立場でその決着をつけるべく進めていたライブイメージングで,自分たちが撮ったたった一つの動画がいとも簡単に白黒をつけてしまったのは衝撃的な経験であった.それ以来というもの,見ることこそ細胞生物学の王道とうそぶき,どっぷりライブイメージングの世界にはまり込んでいる.見ているだけじゃないか,という冷たい声があることも承知しているが,あんたは見てないじゃないか,と心の中で言い返すことにしている.
自分が若いころ,電子顕微鏡の専門家が「こう見えるからこうなのだ」と断言するのを天動説と非難して憚らなかったことを忘れていない.しかし,見たままを信じるのが天動説なのではない.地動説は,天体の動きをより精密に観測することによって天動説の過ちに気づいたのである.顕微鏡で見ると言っても,低倍率で見るのと高倍率で見るのは大違いであり,分解能の向上に伴って見えるものがまるっきり違ってくる.光学顕微鏡の超解像技術がどんどん進歩しているのはご存じの方も多いだろうが,まだまだ電顕には敵わない.電顕に決定的に不足しているのが時間軸である.動きを知り,変化を追うことができるのがライブイメージングの神髄であり,また時間分解能を高めることによってこれまで見えなかったものがどんどん見えてくる.
生化学的なデータに基づき提案され,これまで受け入れられてきたモデルが,見ることによってばっさりと否定されることが現実に起こりつつある.自ら提案したモデルまでも次々に否定し,修正し続けるのは快感ですらある.名誉会員の引導を渡されたいま,古典生化学からのコペルニクス的転回をもう少し続けてみようと思っている.(蛇足であるが誤解を避けるために.イメージングにおいても結論の検証に生化学,遺伝学がきわめて重要であるのは言うまでもない.)
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