キャリアーパス雑感
東京大学定量生命科学研究所特任教授
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安定的研究職の減少による将来への不安からか博士課程に進学する学生が減少し,さらに海外留学する若者も減っている.大変憂慮すべき状況である.私は1975年に理学系の大学院生として東大医科研化学研究部(上代淑人教授)に入門して1980年に卒業した.当時の日本にはポスドクという制度がなく,博士課程修了後のキャリアーパスとしては,大学の助手(助教),公的研究機関や企業の研究員,海外留学,さもなければオーバードクターとして無給で研究室に残ることであった.当時も職に就けないオーバードクターという問題はあったが,現在のポスドク問題ほど大きな社会問題にはなっていなかったように思う.
私の大学院での研究には,当時始まったばかりのDNA組み換え技術を使う必要があったが,日本では制限酵素などの入手は簡単ではなく,必要な酵素を自ら精製する必要があった.したがって,そうした研究における欧米との研究レベルの差は如何ともしがたい状況であり,留学を視野に入れることは自然の流れだったと思う.私は大学院修了後に2年ほど静岡大学で助手を勤めてからアメリカに渡り14年後に帰国して東大分生研で研究室を持つことができた.結果的には幸運に恵まれた留学であったが,終身雇用の大学の職を辞して海外に行くことに不安がなかったわけではない.
私の留学先は,Stanford大学のA. Kornberg教授やP. Berg教授らが1981年に設立した民間のDNAX研究所であった.私が修士課程の時に指導を受けた新井賢一博士は,A. Kornberg研究室に留学中に数多くの業績を残し,帰国後直ぐにDNAXの分子生物学部長として招聘された.私は,新井博士に誘われるままに設立直後のDNAXに参加することにした.錚々たる方々がアドバイザーに名前を連ねていたが,設立直後で何の実績もない研究所であり,恩師の上代先生は私がDNAXに参加することを勧めはしなかった.なぜ安定な職を辞めて留学を決めたのか改めて考えてみるに,DNA組み換え技術の発祥の地であるStanfordに対する憧れと先端研究に接してみたいという思いが強かったのだろう.
設立当初のDNAX研究所は,39歳の新井博士を筆頭に30代前半の分子生物学や免疫学の若い研究者の集まりであった.新井博士が率いる若い研究チームは,P. Berg研究室で岡山博人博士(東大名誉教授)が開発したcDNA発現クローニング法を早々に導入して数多くのサイトカインのcDNAクローニングに成功し,DNAX研究所は設立後わずか数年で免疫学の最前線に躍り出た.バイオベンチャーの先駆けであるGenentechやAmgen, DNAXのライバルであったImmunex(現Amgen)などバイオベンチャーで先端的研究を牽引していたのは,どこもほとんど無名の若い研究者達であった.彼らの多くはその後,主要な大学,研究機関,製薬企業などで大いに活躍している.当時のアメリカにおける民間の新興研究機関が研究者のキャリアーパスに果たした役割は決して小さくない.DNAXは,設立の約1年後に製薬企業の傘下に入ったが,研究所の運営は自律的であり極めてオープンで自由な環境であった.しかし残念なことに,2003年には親会社の一部門となりDNAXの看板は降ろされた.しかしこの間にDNAXに留学した日本人研究者の実に多く(正確な数字を知らないが,おそらく30名以上)が帰国後に主要な大学や研究機関のPIとなって活躍している.
私は1995年に帰国して東大分生研で研究室をスタートし,ポスドクを必要としていたが,日本には相変わらずポスドクという制度はなかった.当時の分生研所長の大石道夫先生は,ポスドクの必要性を十分理解されており,寄付金から謝金を支払うことで研究員を雇用することを可能にしていただいた.その後,公的研究費からでも研究員を雇用することが可能となり,国内のポスドクは劇的に増えた.それ自体は喜ばしいことではあるが,若者の留学の機会を減らしている可能性もある.また日本では,ポスドクに自律した研究者となる環境が与えられているのか甚だ疑問である.私はポスドク問題に長年関わってきたが,残念ながら有効な解決法は見つかっていない.国もポスドク支援事業を行なってはいるが十分ではなく,私は民間資金によるベンチャーの活性化こそが新たなキャリアーパスにつながると思っている.しかし,日本におけるバイオベンチャーへの支援は極めて限定的であり,アメリカのそれとは全く比較にならない.日本のこの現状を深く憂慮している.
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