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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 91(6): 739 (2019)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2019.910739

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絶滅危惧種?

慶應義塾大学医学部

発行日:2019年12月25日Published: December 25, 2019
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旧知の生化学の先生が初対面の発生学の先生に「生化学が専門?絶滅危惧種ですね」と言われたと笑っていた.私に言わせれば発生学こそ「すでに滅んだ種」と思うが,確かに生化学が得意の「モノ取り」の時代は終わりに近づいているかもしれない.

この5月1日に年号が平成から令和に代わった.その前日に平成の30年間を振り返る番組が多く放映された.特に印象に残ったのは池上彰で,「平成元年のバブル期には世界の時価総額トップ10の企業に日本の企業が七つも入っていたが平成30年は一つもない.時価総額上位50社でみても日本企業が35社も入っている.現代はかろうじてトヨタが35位で1社のみ」と言っていた.当時の上位企業は銀行商社の他,電機メーカー,重工業も入っていた.しかし現在の上位はアップル,アマゾン,グーグル,フェイスブックといわゆるGAFAに代表される情報通信産業の企業である.「バブル期に日本はモノ造りにこだわりすぎて情報の時代に乗り遅れた」と池上彰は言う.要するにハード偏重でソフトを軽視し過ぎたと言いたいのだろう.同じことが生化学にも言えるのではないか.特に「モノ取り」にこだわる生化学(いや老生化学者)は現在のバイオインフォマティクスの時代についていけない.私は30年くらい前の駆け出しの頃に胎盤(もちろんヒト!)から酵素の精製を行なっていた.何本ものカラムを通すためにコールドルームが普段の居場所だった.その後遺伝子クローニングの時代になったが,モノ取りの職人芸は廃れることはなく,むしろ遺伝子クローニングでさらに輝きを増した.しかし今やRNAseqの解析も自分では全くできない.もう昭和–平成時代の老兵の出る幕はない.

現在では遺伝子情報,発現情報を駆使したインフォマティクスの時代に変わりつつある.令和の時代ではこれがさらに加速して職人技の実験技術は完全に廃れ,机についてモニターを見ながら実験はロボットがやる時代になるだろう.先日NHKの番組でもAIが人間の職人技的な実験手技を完全に習得して正確に速く行なっている様子が紹介されていた.さらには生物医学研究の概念そのものが変わるかもしれない.いやもう変わっているか.これまで信奉されてきた還元論的生物学,つまり生物のような複雑系でも分解して個々の要素を取り出し機能を明らかにすれば理解できる,とする考えには限界がきているのだろう.今は一細胞RNAシークエンスに代表される「素子の全体をありのままに記述して関係性を理解する」時代だ.単純な三段論法的ロジックも通じない.これまではある現象に遺伝子Aが関与するかどうか示すのにAを欠失させてその現象が無くなることを示すことが要求された.インフォマテックスの時代は複数どころか多数の遺伝子や細胞の関係性が重視される.一つの遺伝子の「あるなし」など気にされなくなるかもしれない.古典的生化学から情報生物学へ.生命現象を“理解できた”という感覚そのものが変わると思う.

それにしてもいち早くこの時代の流れを見抜き集中的な投資を行った中国はすごい.全米科学財団が2018年にまとめた報告書では,科学技術の論文数で中国が初めて米国を上回り世界首位となったそうだ.日本は6位となり,新興国ではインドにも追い抜かれている.さらに引用数「トップ10%」論文数は日本は2004~06年の4位から,2014~16年では9位に後退し,代わって中国が5位から2位に浮上した.科学技術立国としての日本の地位が危ういことは誰の目にも明らかだろう.その原因対策は様々議論されているがここでは問わない.中国は基礎科学にも莫大な投資をしていると言われるがシークエンサーの数からしても日本と全く違う.外注で行なっている我々のRNAseq用のサンプルの多くは中国に送られている.中国は単に資金を投入するだけでなく情報産業の育成にも努めてきたのだ.インドにもそれは言えるだろう.我々が「コピー大国」と揶揄している間に完全に抜かれてしまった.これから追いつくのは容易ではないだろう.日本はインフォマティクスを凌駕する「次」を開発する必要がある.いやいや案外「モノ取り」が別の方法論で見直されて復活するかもしれない.絶滅危惧種だから「保護しろ」とは言わないが「どっこいしぶとく生きている」というのも悪くない.

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