追悼:自由奔放に生きた生化学者,市原明先生
東京都医学総合研究所理事長
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生化学者として人生を自由闊達に謳歌された市原明先生(日本生化学会名誉会員)は1928年に大阪でお生まれになり,2018年11月20日,90年の生涯に幕を閉じられました.父君である市原硬先生(1896~1979)は,トリプトファンの中間代謝で世界的な業績を挙げられました古武弥四郎大阪帝国大学医学部教授(1879~1968)に師事,その後継者として有核アミノ酸代謝の研究で日本学士院賞を受賞された著名な医化学者であり,退官後は和歌山県立医科大学教授・学長などを歴任されるなどの学術活動の他,絵画や短歌にも造詣の深い文化人でした.
市原先生は大阪大学医学部を卒業後,微生物病研究所の大学院に入学されましたが,2年後の1954年に渡米,カリフォルニア大学バークレー校(D. M. Greenberg教授)およびジョンス・ホプキンス大学(W. McErloy教授)に留学され,生化学に研鑽を積まれました.留学時代の最大の僥倖は伴侶としてエリザベスさんを得られたことかと存じます.エリザベスさんは英国ケンブリッジのご出身で同じGreenberg研究室に留学されており,同門の縁により先生と夫婦の契りを交わされ,ご長男とお二人のご令嬢に恵まれました.先生は奥様を伴って1957年に帰国され,須田正巳教授(大阪大学医学部),竹田義朗教授(大阪大学歯学部)に師事された後,1965年,徳島大学医学部附属酵素研究施設酵素病理部門の教授として徳島に赴任されました.37才の新進気鋭の教授として研究室を立ち上げられて以来,1994年にご退官されるまで約30年の長きに亘って研究と教育に没頭,卓越した手腕を発揮されて,現在の先端酵素学研究所の創成期から発展期を牽引して来られました.
先生は,読書以外には特段の趣味はなく,多くの友人・知人・弟子たちと酒食を共にしながらの語らいを無上の歓びとされていました.当時の同僚,藤井節郎先生や勝沼信彦先生たちとは,時には若者たちを同伴して,週末ごとに徳島市の有名な歓楽街に出かけては,止めどない酒量と丁々発止の議論に明け暮れておられました.すでに鬼籍の住人である先生方の往時を偲びますと,正に一炊之夢です.
さてエリザベスさんは来日後,研究の一線から退かれ,新たな道に活路を見出されました.当時,日本の生化学や医学は揺籃期を経て未曾有の活動期に入り,英文での論文発表が急増しつつありました.そのための英文校閲は焦眉の急でしたが,日本には,科学に造詣の深い英語を母国語とする翻訳者は殆どいませんでした.そこで日本生化学会は生化学誌(J. Biochem.)の英文校閲をエリザベスさんに依頼され,エリザベスさんは生化学会の会員を含む多数の生命科学者の学術論文の推敲に惜しみなく時間を費やされました.校閲作業は20余年に亘り,改訂論文数は1万編以上だったそうです.当時は,パソコンなどがない時代でしたので,郵送されてきた論文を全て手書きで推敲するという多大な労力を強いるものでした.エリザベスさんは1日数編の論文を校閲されていたそうですが,このご経験を生
かされて1982年「ライフ・サイエンスにおける英語論文の書き方」(共立出版)を上梓され,学術書としては例外的に版を重ね,ベストセラーになりました.エリザベスさんは「simple, accurate, clear」が英文論文執筆の要諦であることを随所に強調されておられました.しかし,1日の大部分を英文推敲のために費やされたことによる姿勢不均衡のために脊髄圧迫による歩行困難という病魔がエリザベスさんの躰を次第に蝕んでゆきました.先生は,1994年のご退官後,暫くして車椅子生活を強いられるようになったエリザベスさんが2009年にご逝去(享年80)されるまで,奥様の介護に没頭されました.その後,数年間は徳島の地で,友人・弟子たちとの酒食交流を糧にお一人で生活されていましたが,ご自身も足腰に不具合が生じて車椅子生活になり,晩年はご長男の住まわれている大阪の介護老人ホームに転居,逝かれるまでお孫さんたちご家族の訪問を楽しみに余生を過ごされました.
市原先生は学生の頃(1952年)に受洗された生粋のキリスト者で,教会関係者からは“長老”として慕われていたそうです.勿論,奥様もオルガン奏者として活躍されたキリスト者であり,ご夫妻は訪れる教会でのお祈りを最大の楽しみにしていたそうです.市原先生は多くの散文を遺されていますが,キリスト者の真髄らしく締めの言葉は,いつも聖書からの引用でした.
先生は,徳島大学に赴任当初から,チロシン,セリン,分岐鎖アミノ酸(バリン,ロイシン,イソロイシン)などのアミノ酸代謝に興味を持たれ,これらの研究はご退官まで引き継がれました.特に分岐鎖アミノ酸トランスアミナーゼのアイソザイムを発見,その酵素学的性質,臓器特異性や肝臓がんにおける発現異常などの生化学・病態生理学研究に打ち込まれ,数々の業績を挙げられました.次いで先生は,アミノ酸代謝の中心である肝臓の研究に関心を持たれました.先生は先見の明があり,初代培養肝細胞系の研究は先生の慧眼の賜物でした.先生はコラゲナーゼを用いて分離した肝実質細胞が多くの肝機能やホルモン
応答性を維持していることに鋭く目をつけられ,1974年頃,初代培養肝細胞系を日本で最初に確立されました.そして初代培養肝細胞研究会を立ち上げられ,退官されるまで,その活動(第1回~第9回:1985~1993)に奔走され,初代培養肝細胞系を我が国に定着させられました.私は1970年過ぎに先生の門に入り,1970年代の中旬の頃,初代培養肝細胞系の確立に専念し,この培養系でのタンパク質代謝研究で学位を取得しました.その後,初代培養肝細胞系の研究は,1977年に先生が招聘された中村敏一博士(後に九州大学・大阪大学教授)が大きく発展させ,極的に肝細胞増殖因子(HGF)の発見につながり,市原研究室の白眉研究に成長しました.その後私は米国留学を経て,タンパク質異化代謝の主要酵素であるプロテアソーム研究を開始し,今日に至っています.市原先生がご退官を迎えられる直前の文部省科研費・特別推進研究「巨大分子集合体プロテアソームの構造と細胞生物学的機能に関する研究」(代表 市原明:1991~1993)が先生の最後の研究の華となりました.先生はご家族を心より愛し,研究面ではアミノ酸代謝の研究に専念,私ども若手には研究の全てを任せることで大きな成果を生み,自由奔放に生化学を楽しんだ研究人生であったかと述懐します.
市原先生は生涯を振り返り“Reminiscence of 40-year research on nitrogen metabolism”と題する総説をProc. Jpn. Acad., Ser. B (2010)に上梓されたのが最後の学術的貢献となりました.その中で“Looking back now, I can say that I had a happy and enjoyable 40-year research”と書かれているのが印象的です.先生は,高松宮妃癌研究基金学術賞や上原賞を受賞された他,日本生化学会会長など数多くの学会活動や学術審査員などで我が国の学術の発展に大きく寄与されました.また退官後も多年に亘ってBBRCの編集員として国内外の学術の発展に尽力されました.
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