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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 92(4): 481 (2020)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2020.920481

アトモスフィアAtmosphere

古きよき時代の留学生の独り言

奈良女子大学名誉教授・龍谷大学教授

発行日:2020年8月25日Published: August 25, 2020
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巻頭言の依頼を引き受けることにした.だれが「生化学」を読んでいるのか? を考えたところ,これから人生を長く歩む若者に一言残そうという気になった.

以前,「浦島太郎が描く研究者として歩む大学の道」という題でアトモスフィアを執筆させていただいたが,そもそもなぜ浦島太郎であったのか,というと,20年あまりの海外生活をしていたからである.その成り行きと体験からの一言にしたい.

そもそも落ちこぼれ学生であった折,機会があって留学という道があることを知った.幸いに力のある先生方の推薦状のお陰で,ボストン郊外のユダヤ人が創立した大学の大学院に受け入れてもらえることになった.当時では珍しい学部を持たない大学院だけの「生化学教室」であり,同期生は7名だけであった.その1人は後に「Lehningerの新生化学」の著者になっている.私以外は全員所謂Full scholarshipをもらっていた.私も,ということでChairmanに頼んでみたところ,お前はアメリカ人ではないのでダメと言われたが,授業料を全額免除してもらえた.留学するにあたっていろんな奨学金制度があっただろう,と思われるだろうが,4回生の秋に急に留学するぞ,ということでは,ほとんどの奨学金への応募期間が過ぎており,さらに,いわゆる人気のある目的の大学院への申請に関しても締め切りを逃していたので,留学できたこと自体が奇跡であったと思うしかなかった.当時,書類のやり取りは船便か高い航空郵便だけであり,急な知らせは電報であった.FAX,宅急便,それに電子メールなどなかった時代のお話である.

大学院生活は極めて新鮮であった.生化学(科目名は「Biochem101」)の授業は通年であり,月曜日から金曜日まで朝の9時から10時まで3名の教授が分担していた.多少のPhysiology的な内容もあったが,ほぼ通年のEnzymologyと考えてよい.水曜日だけはチューターといって大学院の高学年の学生が1週間の復習と小テストを担当していた.そう,高校の授業のように毎日授業があったのにはびっくりであった.さらにびっくりしたのは,毎日,その日の講義内容の元となる原著論文を10編ほど黒板の端に列挙されたことである.授業が終わると皆図書館に直行してその論文を読むという毎日であった.驚くなかれ,そのうちのいくつかはまだ図書館には並んでいなかった.つまり雑誌の印刷には回っており,ページ番号がわかっている,いままさに出版されようという論文が含まれていたのである.何いわんや,教授たちはJACS, PNAS, Biochemistryという生化学のトップジャーナルの編集者たちで,たぶん,論文を審査した関係でそのようなことができたのであろう.生化学には他学科からの学生たちも受講していた.もちろん記述式の筆記試験で,中間試験と期末試験があった.ところが,生化学専攻の学生だけには,口頭試験もあった.2人の教授が個別に学生1人づつに対して口頭で質疑応答をした.ほぼ1時間づつであっただろうか.この科目で評点Bをもらうと,翌年,奨学金の給付が打ち切られるということで,全員必死であった.残念ながら,3名がBをもらい,他大学(医学部など)へ転出していった.私? 私は再履修させられた.

当時はアメリカの生化学は最先端なので,アメリカの院生は何でもできると考えがちだが,そうではない.一つ,思い出したので書き記す.大学院なので,いずれ学位の研究をするために研究室に配属される.しかし,研究室選びの参考として最初の2年間で六つの研究室に体験入室し,それから希望の研究室に配属するという制度であった.ローテーションと呼んでいた.教授の側も学生を選べるので,両想いでないと駄目なようである.ローテーションで脳内でのアンモニアの代謝に関する酵素の研究をしている研究室に入室した折,その酵素を精製するのにアフィニティレジンをつくる,というプロジェクトをさせられた.レジンにATPを結合させ,まず,きちんとATPが結合したかをペーパークロマトグラフィーで確認するという実験テーマであった.ATPを結合させたレジンを酸で加熱分解処理したあと,ろ紙にスポットしてから,クロマトチャンバーで泳動してスポットの動きで標準のATPと泳動距離を比較するのである.私は,当時,学部では量子化学の研究室にいたので,ほぼ生化学の知識がなく,酸で分解した液をそのままろ紙にスポットしていた.もちろん酸でろ紙が焼けて穴が開いたのである.同室の先輩に問題解決を願い出たのだが,まったくもって役に立たない先輩であった.もうすぐ博士号を取得しようというのに! 酸は塩酸だったので,ロータリーエバポレーターなどで飛ばせばよかったのだが,無知な時であったということで.

珍道中とは違うが,賢明な読者が読むとアホなことばかりしてきたが,何とか「自殺基質の反応機構」の解明でいくつかの論文を出し学位を得て,ニューヨークの大学でポジションを得ることができた.何とか今まで研究活動を続けてこれたのはこの経験からか.若い諸君,飛び出せJapan!

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