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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 92(6): 767 (2020)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2020.920767

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思いがけない発見とその後の展開

前 国立感染症研究所細胞化学部長

発行日:2020年12月25日Published: December 25, 2020
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私は,国立感染症研究所を60歳で定年退職し,その後は国立医薬品食品衛生研究所の所長や昭和薬科大学の学長などを務め,今は現役の研究生活から離れて15年程になる.日頃,オリジナルの論文を読むこともほとんどないが,自身が取り組んだ研究についてだけは多少の努力をしている.その一つであるリン脂質,ホスファチジルセリン(PS)に関する研究には,自身の研究と深く関係する新しい発見や展開があるため,尽きぬ興味と喜びをもって接している.

PSは細菌から哺乳動物まで広く存在する生体膜リン脂質の一つである.このPSは,細菌や酵母においてはセリンとCDP-ジグリセリドから生合成されるが,哺乳動物ではこのような反応を触媒する酵素がなく,それに代わってリン脂質の塩基部分とセリンとの間の塩基交換反応によりPSがin vitroで生成することが報告されていたが,そのin vivoでの役割は不明であった.そこで,私共はCHO細胞からこの塩基交換反応を欠損する変異株を,in situでの活性測定とPS要求株の二つの方法で分離し,哺乳動物においてはこの塩基交換反応によりPSが生合成されることを明らかにした.更に,この塩基交換反応を触媒する酵素(以下,PS合成酵素と呼ぶ)の遺伝子のクローニングにも成功した.ここでは変異株をPS要求株としてスクリーニングした時に遭遇した思いがけない発見とその後の展開にまつわる話を二つ紹介させていただく.

その1.アミノ酸や糖などの低分子化合物であればともかく,PSのような分子量も大きく,脂溶性の生体成分の要求株などを分離することは,当時,かなり無謀なことであった.しかし,若さのためもあり,当時大学院生であった久下理君(現在,九州大学理学部化学科教授)と共にトライし,なんとPS要求性が明確な変異株を運よく分離することができた.また,この変異株は期待したようにPS生合成酵素活性を欠損していたため大きな目標は達成できた.しかし,CHO細胞は一体どのようなメカニズムで培地に添加したPSを効率よく取り込むのかについて疑問が残った.未解決のままであったこの疑問については,PS要求株の論文を発表してから18年後にもなる2014年に,長田重一教授らがPSを細胞膜の外葉から内葉に輸送するフリッパーゼを哺乳類細胞で同定されたことを知り,答えはこれだろうと興奮した.まだ直接的な証明はないが,恐らくこのフリッパーゼの働きによりPSが効率よく細胞内に取り込まれるものと思っている.また,フリッパーゼの発見を知った時,PS要求株を得ることができたことを,改めて,なんと幸運なことであったかと思った次第である.

その2.PS要求株を得る過程で培地にPSを添加するとde novoのPS生合成がほぼ完全に抑制されることを見出した.同時に,全く他の目的で得た変異株において,驚いたことに培地に加えたPSによるde novo PS生合成抑制が起こらないことが判明し,さらに,この変異株の変異がPS合成酵素そのもののミスセンス変異であることが分かった.このPS代謝におけるプロダクトフィードバックによる調節の発見は,リン脂質代謝の調節機構として初めてのものであり,二つの思いがけない発見がほぼ同時に得られた結果であった.さらに,私共の報告から16年後,イギリスのグループから,Lenz-Majewski症候群という全身性の骨化過剰症を特徴とする疾患の原因が,なんと我々の変異株と同じ場所にあるPS合成酵素のミスセンス変異であり,この患者ではPSによるde novo合成阻害が起こらないことが報告された.このNature Genetics誌の論文では,我々の論文が5報も引用されており,大変嬉しく思った.PS合成酵素活性のプロダクト阻害の欠損がどのようなメカニズムで知的障害や骨異形成などのLenz-Majewski症候群の表現型をもたらすのかはまだ不明であるが,今後の解明を期待している.

リン脂質の初期の研究は1800年代にまで遡るが,PSは1941年に著名な脂質生化学者Folchにより単離精製・構造決定がなされた.私共がPS要求株の分離に用いたPSはこのFolchの方法によって精製したものである.もしFolchがこのことを知ればきっと喜ばれることであろう.in vitroにおけるリン脂質の塩基部分とセリンとの間の塩基交換反応を1959年に最初に発表したHubscherらも同様であろう.自身の研究がその後,他者により追試・再現され,更にそれを基礎に周辺研究の発展に貢献すれば,研究者にとってこれ以上に嬉しいことはない.研究生活から離れて久しい生化学者が想うことの一つである.今後のリン脂質研究の一層の進展が楽しみである.

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