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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 93(5): 621-627 (2021)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2021.930621

特集Special Review

量子化学計算・ラマン分光法を用いた硫黄化合物の構造解析の動向Trends in the structural analysis of sulfur compounds using quantum chemical calculations and Raman spectroscopy

東北大学大学院薬学研究科Graduate School of Pharmaceutical Sciences, Tohoku University ◇ 〒980–8578 仙台市青葉区荒巻字青葉6–3 ◇ 6–3 Aoba, Aramaki, Aoba-ku, Sendai 980–8578, Japan

発行日:2021年10月25日Published: October 25, 2021
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分子内に過剰に連結した硫黄原子を持つ超硫黄分子は,生理機能に対してさまざまな役割を示すことが報告されている.生化学反応の機構について,超硫黄分子の構造および電子状態に基づく分子論的視点から明らかにすることは,超硫黄分子の役割の理解,超硫黄分子を用いた創薬などの展開に必須となる.本稿では,量子化学計算を用いた超硫黄分子の構造や反応性に関する最近の研究例を紹介する.また,細胞内分子をラベルフリーで測定するラマン分光法にも着目し,細胞内に存在する超硫黄分子のラベルフリー検出と量子化学計算を用いた構造解析の可能性について言及した.

1. はじめに

近年,ヒトをはじめとする哺乳類において,「超硫黄分子」と呼ばれる化合物群が注目を集めている1–4).硫黄原子が過剰に連結した化合物である超硫黄分子は,求核性と求電子を併せ持つなど,従来の硫黄化合物とは異なる性質を示す.抗酸化・抗炎症物質として生体の恒常性に関与し,さまざまな疾患の発症や進行を抑制することが示唆されている.さらに,超硫黄分子はミトコンドリア電子伝達系において,電子受容体として作用するとされ,細胞はエネルギー産生の過程において,酸素だけではなく超硫黄分子を利用した呼吸(硫黄呼吸)を行う可能性が提案されている.超硫黄分子は,生命機能の維持に重要な役割を担うと考えられ,生体内での存在や役割を解明することで,疾患発症のメカニズム解明や創薬への応用が期待される.

前述したように,超硫黄分子は求核性と求電子性の両者を併せ持ち,さらに高い反応性を示すことが提案されている.この超硫黄分子特有の反応的性質が,超硫黄分子の生理機能の重要性の源であると考えられる5, 6).そのため,超硫黄分子の反応機構を分子論的に明らかにすることは,生体内での役割の解明に重要であり,超硫黄分子を用いた創薬などの展開でも必須となる.しかし,著者らの知る限りでは分子論的な機構の研究例はまだ少なく,超硫黄分子の反応性・反応機構の詳細な理解は得られていない.

また,反応機構の詳細が明らかにされていないもう一つの点として,生細胞内における超硫黄分子のその場計測が難しいことがある.細胞内の定量分析によく用いられる質量分析法は,きわめて高感度に細胞内の超硫黄分子を定量できる.しかし,反応性の高い超硫黄分子はイオン化過程において分解・反応を起こすことが考えられ,生細胞内で本来存在する分子種とは異なる可能性を否定できない.また,蛍光プローブを用いた方法は細胞内の超硫黄分子の高感度検出を行うことができるが,分子種や分子構造の同定は限定的である.加えて,蛍光標識の化合物と超硫黄分子の分子量が同程度であり,蛍光標識が付加することで超硫黄分子の物性が変化し,本来の動態を追跡できないことが考えられる.生理機能に対する役割を解明するためには,生細胞内における超硫黄分子の構造や動態に関する知見が必須であり,生細胞内に存在する超硫黄分子を「あるがままの状態」で「その場検出」する手法の開発が必要である.

そこで,本稿では量子化学計算を用いて超硫黄分子の構造や反応的性質の分子機構を検討した最近の研究例を紹介する7).また,生細胞内の超硫黄分子について,あるがままの状態でその場検出できる手法として最近注目されているラマン分光法についてふれ,研究例を紹介しながら,ラマン分光法を用いた生細胞内の超硫黄分子の検出と構造・動態追跡の可能性について言及する.量子化学計算,ラマン散乱などを用いた超硫黄分子の研究例は少なく,初学者にもわかるような形で説明する.本稿をもとに今後の研究に活かしてほしい.

2. 生体分子の構造最適化計算

生体分子に限らず,分子の構造や反応解析の計算では,はじめに内部エネルギーが最も低い構造(最も安定な構造)の探索を行う.この過程を構造最適化と呼び,現実系に存在しうる分子を突きとめることに等しい.構造最適化によって得られる構造をもとに,反応性などを吟味する.生体分子のような大きな分子では,分子動力学法とドッキングシュミレーションが理論的な構造解析によく用いられている.これらの方法は,古典力学に基づいて計算することが多く,たとえば分子動力学法は,分子を構成する原子の間に働く相互作用をあらかじめ規定し,古典力学のニュートン方程式を何度も繰り返し解きながらエネルギーの低い構造を求めることが多い8).これらの古典的な方法の特徴として,計算コストをあまり必要とせず巨大分子の解析も可能となる点がある.しかし,原子間の相互作用のパラメータとして代表的な値が用いられるなど,超硫黄分子内の特異的な電子の分布などを十分に記述できない可能性がある.

構造最適化は分子内にある電子と原子核,または電子どうし,原子核どうしの相互作用エネルギーの和を最も低くする作業となる.この構造最適化の精度を上げるためには電子と原子核を量子論的に取り扱うことが必要となる.量子論に基づいた計算である量子化学計算では,分子の電子軌道(分子軌道)の概念に基づいた非経験的分子軌道[ab initio molecular orbital(MO)]法が主に用いられてきた.非経験的(ab initio)とは上述の古典力学を用いた計算とは異なり,原子のパラメータを仮定しないで計算を行うことを指す.非経験的な手法を用いることで硫黄原子の特異性も説明できる可能性がある.

一方,ab initio MO計算の弱点として,古典論に基づいた計算よりも時間と計算コストを大きく消費することがあげられる.特に,電子相関と呼ばれる分子内の電子間の相互作用の評価について,取り入れ方次第では相当の時間を費やすことになる(電子相関は量子化学計算の難点の一つである).そこで最近では,直接MO計算を行うのではなく,密度汎関数理論(density functional theory:DFT)を用いた計算が多く行われている9–11).通常のMO計算では,N個の電子からなる分子に対して,3N個の電子の自由度を最適化する必要がある.しかし,DFT計算では,N個の電子を3次元の自由度を持つ電子密度に置き換え,電子密度から分子の電子状態,構造をab initioで求める.そのために電子相関を取り入れながら計算時間を短縮化させることができ,比較的大きな分子の構造最適化も行えるようになった.超硫黄分子についてもDFTを用いて計算を行うことができ,以下のように報告されている.

3. 超硫黄分子の構造様式

1)立体配座

硫黄分子の基本的な構造様式であるS–S結合の回転による立体配座の計算が行われており,S–S結合を含む分子は,平面的な構造より折れ曲がった構造を形成しやすいとされている12, 13).Hernándezらは,S–S結合を含む分子のモデルとしてジメチルジスルフィドの安定構造の計算を行い12),χ1(S–S結合)を中心としたときの二面角(CH3–S結合面とS–CH3結合面のなす角度)が,およそ±87°となる折れ曲がった構造が最も安定になるとしている(図1).一方,二面角が180°付近となる平面的な構造はエネルギー値が最も高くなり,不安定(存在しえない構造)になった.この理由についてHernándezらは,3pπ電子どうしの反発が生じるため,平面的な構造は形成しにくいとしている.

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図1 ジメチルジスルフィド(硫黄2原子)とパースルフィド(硫黄3原子)の二面角(左)と硫黄原子の結合に対する最安定の立体配座(右)

我々が行ったジメチルトリスルフィドの安定構造の計算結果も図1に併せて示してある.χ1およびχ1′の二面角を変化させ,それぞれの構造のエネルギー値を比較すると,χ1とχ1′がともに±81°が安定となった.一方,平面的な構造はエネルギー値が高くなり,ジメチルジスルフィドと同様に不安定となった.シスチンなどのアミノ酸関連生体分子についても同様の傾向を示すとされており,分子内に複数連結した硫黄原子を持つ超硫黄分子も,折れ曲がった構造で安定化すると考えられる.

2)分子内水素結合

硫黄化合物の安定性には,S–S結合の立体配座の他に分子内水素結合が関与する.Rouxらの報告によると,システインは気相中の中性状態において,アミノ基やカルボキシ基,チオール基などの極性のある置換基間で分子内水素結合を形成する構造が最も安定となる(図214).Dobrowolskiらもシステインについて同様の計算結果を示し,さらに51個のシステインの構造が気相中で安定構造になりえること,最安定構造と他の構造とのエネルギー差は小さく相互作用に応じて他の構造をとりうることを示している15)

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図2 システインの気相中での最適化構造(左)とシステインパースルフィドの水溶液中での最適化構造(右)

点線は水素結合を表す.赤:O,青:N,黄:S,灰色:C,白:H.

水溶液中の構造最適化については,Fernández-Ramosらが,PCM(polarizable continuum model)と呼ばれる方法を用いてシステインの水溶液中での構造最適化を行っている16).この方法は,指定された誘電率の連続誘電体の中で構造最適化を行う方法である17).彼らの結果によると,水溶液中においても,システインは気相中と同様に極性の置換基どうしが分子内水素結合を形成する構造が最も安定となる.

超硫黄分子についても同様に,分子内水素結合が分子の安定性に寄与するとされる.しかし,PCM法を用いてシステインの超硫黄分子種(CysSSH)について水溶液中で構造最適化を行うと,カルボキシ基とチオール基間の水素結合は解離した状態が最も安定となることがわかった(図2).カルボキシ基とチオール基間の分子内水素結合は,周囲の極性環境が増大するにつれて解離する傾向にあると考えられる18)

4. 超硫黄分子の反応解析

1)反応性の比較

タンパク質中のシステイン残基の酸化修飾は,細胞のレドックスシグナルに重要であり,酸化修飾の過程で生じるスルフェン酸(R-SOH)は,ジメドンを検出試薬として質量分析により検出できる.Heppnerらは,細胞内で検出しているジメドン付加体が超硫黄分子の酸化に由来することを確証するため,硫黄分子のモデルとしてエタンチオール(Et-SH)とエタンパースルフィド(Et-SSH)を取り上げ,スルフェン酸(R-SOH)の検出試薬である環状化合物ジメドンとの反応性についてDFTを用いた計算を行った19)

具体的には,硫黄化合物と過酸化水素との酸化反応によるスルフェン酸(Et-SOHとEt-SSOH)の生成,さらに得られたスルフェン酸とジメドン類縁体(cyclohexane-1,3-dione)との結合反応(Et-S-dimedoneとEt-SS-dimedoneの生成)についてエネルギー計算などを行った(図3).計算では,生成物と反応物の構造最適化を行い,得られた最安定構造のG0から反応の進行のしやすさを表すギブスエネルギー差(ΔG0)を得ている.上述のPCM法と似た方法であるIPCM(isodensity polarizable continuum model)20)を用いて水溶液中でのエネルギーを見積もった.

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図3 エタンパースルフィドの酸化反応とジメドン付加

スルフェン酸生成の酸化反応では,Et-SSHとEt-SHはともに発熱反応であり,Et-SSHはEt-SHよりもΔG0が約6.2 kcal/mol低く見積もられ,SSH体の方がスルフェン酸の生成反応が進行しやすいことがわかった.一方,スルフェン酸からジメドンとの反応では,ともに発熱反応であったものの,Et-SOHがEt-SSOHよりも約5.7 kcal/mol低く見積もられ,Et-SOHの方が進行しやすかった.また,ジメドンとR-SSHでは,H2Sを除去することでR-SSHからR-S-dimedoneを形成させることができる.しかし,Heppnerらの計算では,R-SSHからR-S-dimedoneへの付加反応は,エネルギー的に約7.6 kcal/mol高くなり,ジメドンとR-SSHとの直接の反応は,R-SSOHとの反応に比べて約15.1 kcal/mol不利になった.この計算結果から,ジメドンはR-SSH種に比べてR-SOHまたはR-SSOH種に対して高い選択性を持つことが示された.

2)反応機構の探索

DFTを用いた反応機構の解析も複数行われている.H2Sは第三のガス状メディエーターとして注目され,さまざまな生理活性を示すとされている.Zhangらは,R-SSHとH2Sの反応がH2Sを介した生化学反応に重要であることに着目し,DFTを用いて反応の起こりやすさや反応機構について調べた21).具体的には,メチルパースルフィド(Me-SSH)と硫化水素からMe-SHとH2S2が生成する反応(Me-SSH+H2S→Me-SH+H2S2)について,中間体などの安定性を考慮しながらDFT計算を行った.気相中では活性障壁が非常に高く,反応が生じにくいのに対し,溶液中でMe-SSとなることで硫化水素と反応を生じうること,また実験結果を再現する計算結果が得られていることを示している.

タンパク質と超硫黄分子との反応については,QM/MM(quantum mechanical/molecular mechanical)法による計算が報告されている.この方法は反応や分子間相互作用に直接関係する部分のみDFTなどの量子化学計算を行い,それ以外の領域は分子動力学法で古典論で計算することで,計算時間を短縮させる方法である.Linらは,金属結合タンパク質であるエチルマロン酸脳症タンパク質1によるグルタチオンパースルフィド(GSSH)の酸化反応についてQM/MM計算を行った22).タンパク質内にある鉄(II)とGSSHおよび酸素分子の配位構造,および酸素分子の解離を出発点とする反応機構を提案している.QM/MMを用いた超硫黄分子とタンパク質との相互作用解析は,今後さらに進められていくと考えられる.

5. ラマン顕微鏡

はじめに述べたように,超硫黄分子の反応機構を理論的に検討するためには,生細胞内の超硫黄分子をあるがままの状態でその場検出する手法の開発が必要となる.そこで最近は,超硫黄分子の細胞内検出の問題を解決する手法として,ラマン散乱を用いたラマン顕微鏡が注目されるようになった23–27).ラマン散乱は,レーザー光を試料に照射し,試料から散乱された光の中にある入射レーザー光の波長とは異なる波長の光が散乱される現象を指す.入射光の波長とラマン散乱光の波長の差は,試料分子の振動(または電子遷移,回転)エネルギーに一致する(図4).そのために,分子振動に由来するラマン散乱を観測するラマン顕微鏡を超硫黄分子に適用すれば,ラベルフリーで細胞内にある超硫黄分子を直接観測できる.また,ラマンスペクトルは分子の構造を反映するため,量子化学計算によってさまざまな分子種・分子構造のラマンスペクトルを計算し,実測値と比較することで,分子種や構造の同定を行うことも可能である.また,ラマン強度を2次元プロットすることで細胞内の超硫黄分子の分布画像も得ることができる.以上より,細胞内にある超硫黄分子のその場観測においてラマン顕微鏡は最も有効であると考えられ,近年ではラマン顕微鏡を用いた超硫黄分子の検出が検討されるようになっている.

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図4 ラマン散乱の概念図

一般的に用いられるストークスラマン散乱を示している.励起波長に比べて長波長の光が散乱され,励起波長とのエネルギー差が振動エネルギー(振動量子数n=1とn=0との差)に対応する.

ラマン顕微鏡の顕微光学系は通常の共焦点蛍光顕微鏡と基本的には同一であり,出力の高いレーザーと検出器を含めた検出系のみが異なる.そのために,蛍光顕微鏡と同様に細胞を培養した状態で観測することができ,さまざまな汎用機器との組合わせも可能である.超硫黄分子が吸収しない波長の光を励起レーザー光として用いれば,蛍光観測の問題点である試料の光損傷を大きく抑えることもでき,定量性を向上させることができる.我々もラマン顕微鏡を用いて生細胞内にある分子のラベルフリー計測を行っており,細胞内に導入した脂肪酸の細胞内での検出25),細胞内にある水のO–H伸縮振動のラマンバンドを用いた細胞内の水の密度定量26)と細胞内温度計測27)などを行っている.図5にヒト由来の細胞株である単一HeLa細胞のラマンスペクトルを示す.細胞のラマンバンドは,脂質,タンパク質,水のラマンバンドに大きく分けることができ,3300 cm−1付近にブロードにあるのが水のO–H伸縮振動バンド,2900 cm−1と1450 cm−1の領域のバンドは,脂質とタンパク質のC–H伸縮振動とC–H変角振動バンド,1660 cm−1の領域のバンドも,タンパク質のアミド基のバンド(アミドIバンド)と脂質のバンドの組合わせである.これらのラマン強度をマッピングすることで,細胞内のタンパク質や脂質の分布を知ることができる.

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図5 単一HeLa細胞のラマンスペクトル(左)とC–H伸縮振動バンド(~2900 cm−1)の強度でプロットしたラマン画像

励起波長532 nm.

一方,ラマン散乱の最大の欠点は,信号強度が蛍光に比べてきわめて弱いことである.そこで,各研究グループは独自の工夫を行い測定時間の短縮,信号強度の増加を行っている.我々の研究室では,多共焦点法を用い,励起レーザー光を10×10の100分割し,100点からなるラマン画像を1回の測定で得られるようにしている.この方法を用いることで原理的には1/100の時間でラマン画像が得られることになる.図5の画像は多共焦点ラマン顕微鏡で得られた結果であり,測定時間は約90秒である.

6. 硫黄化合物のラマン観測

表面増強ラマン散乱(surface enhanced Raman scattering:SERS)と呼ばれる方法を用いた細胞内での硫黄分子種の検出が報告された.SERSは金や銀などのある特定の金属,または半導体のナノメートルサイズの構造の近傍に分子が接近するとラマン散乱強度が著しく増大する現象である28).ナノ構造に光を照射すると,ナノ構造体の表面近傍に局在化している表面プラズモン(金属表面の自由電子の集団振動)が励起され,増強電磁場が発生することを利用している.ラマン散乱強度は1014倍も増強されるといわれており,通常のラマン測定では不可能な単一分子のラマン観測も行うことができる.SERSを用いた細胞内分子の観測においては,ナノ粒子を細胞内に導入したり,ナノサイズの凹凸を持つ金属基板上に生体試料をのせることで測定を行っている.SERSはきわめて高感度であるものの,ナノ構造によって大きくその強度やスペクトル形が変わってしまう.そのために,SERSの定量測定を行うためには,再現性の高いナノ構造を作製する必要があった.

Shiotaらは,富士フイルム(株)が開発したソラマメ状の金ナノ粒子の自己組織化を用いたSERS基板[gold-nanofève(GNF)と論文では呼ばれている]を用いて,病理組織中の硫黄代謝物のSERS測定に成功した29).このSERS基板は再現性が高くSERSを用いた定量測定およびイメージング測定が可能であるとしている.彼らは,病理組織切片のがん部と非がん部のSERSスペクトルについて解析を行い,がん部のラベルフリーイメージングを提案している.がん部には298 cm−1に位置する還元型グルタチオンのSERS強度が強く,非がん部はシステインから生成されるヒポタウリンの978 cm−1のSERSバンド強度が強いことが示されている.さらに,がん部で強く観測される480 cm−1のSERSバンドはポリスルフィドで説明できるとしている.

これらのバンドの帰属は,質量分析とDFTによるラマンスペクトルの計算から行われている.還元型グルタチオンのみのラマンスペクトルでは,298 cm−1の強いラマンバンドは観測されない.しかし,三つの金原子からなる金クラスターと共有結合をしている状態でラマンスペクトルのDFT計算を行うとその領域に強いラマンバンドが示され,298 cm−1のバンドは金原子とグルタチオンの硫黄原子との間の伸縮振動バンド(Au–S伸縮振動バンド)と帰属できる.ヒポタウリンについても単体の状態では978 cm−1のバンドはほとんど観測されない.しかし,金原子と共有結合を形成することでこの領域に強いバンドが現れることが計算され,ヒポタウリンのS=O伸縮振動バンドと帰属した.ポリスルフィドは,S–S結合に由来する伸縮振動バンドが400から500 cm−1に強く観測されることから,480 cm−1のバンドをポリスルフィド分子に帰属している.

GNFのSERSによるポリスルフィドの検出について,卵巣がん組織への応用が最近行われた30).シスプラチンなどの白金製剤を用いた卵巣がんの術後化学療法において,480 cm−1のポリスルフィドのバンドをバイオマーカーとして提案し,480 cm−1のバンド強度が強い場合には術後化学療法の効果が小さい傾向にあるとしている.この結果は,白金製剤の効果が弱いがん組織ではポリスルフィド分子の濃度が高く,白金製剤のDNA架橋反応による抗がん作用を低減化させることを意味している.さらに,ポリスルフィドのモデル分子(Na2S4)に既存薬剤であるAmbroxolを作用させるとS–S伸縮振動バンド強度が減少した.この結果は,Ambroxolによってポリスルフィド分子の分解が生じていることを示し,実際にAmbroxolの添加によって卵巣がんの薬剤抵抗性を低下させることもわかった.

上述のように,酸化型の硫黄化合物はS–S伸縮振動のラマンバンドを400~500 cm−1の領域に強く示す(図631, 32).このバンドのピーク位置は硫黄化合物によって変化するために,超硫黄分子検出のマーカーになりえると考えられる.また還元型においてはS–H伸縮振動バンドが2550 cm−1の領域に観測される31).このバンドのピーク位置はS–S伸縮振動に比べて分子によって変化しないと考えられるものの,この2550 cm−1の領域には他の生体分子のラマンバンドはなく(サイレント領域と呼ばれる),高感度で還元型の分子種を観測できる可能性がある.ラマンスペクトルを用いた超硫黄分子種の同定と構造解析では,超硫黄分子のモデル化合物のラマンスペクトルのライブラリの作成,およびDFTなどを用いた超硫黄分子のラマンスペクトルの系統的なシュミレーションが今後重要になってくると考えられる.超硫黄分子のラマンスペクトルの実験および計算結果の蓄積によって,細胞内の超硫黄分子の同定を容易に行うことができると考えられる.

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図6 粉末状態での高波数領域(左)と低波数領域(右)のシスチン(青)とシステイン(赤)のラマンスペクトル

7. おわりに

超硫黄分子の量子化学計算による構造・反応解析およびラマン顕微鏡による細胞内検出の動向について最近の研究成果を概説した.本稿からわかるように,このような研究例はいまだ少ないのが現状である.超硫黄分子の重要性がさらに認識される中で,量子化学計算を用いた研究例が今後数多く報告されていくことは必然であると考えられる.またラマン顕微鏡と量子化学計算を組み合わせることによって,細胞内での超硫黄分子の構造と動態の深化につながることができる.そのためには,量子化学計算による超硫黄分子のラマンスペクトルのシュミレーションの検討と高感度なラマン顕微鏡の装置開発が引き続き重要である.

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著者紹介Author Profile

影山 莉沙(かげやま りさ)

東北大学大学院薬学研究科医療薬学専攻博士課程.

略歴

2020年国際医療福祉大学薬学部薬学科卒業.同年東北大学大学院薬学研究科医療薬学専攻博士課程入学,現在に至る.

研究テーマと抱負

ラマン顕微鏡を用いた生細胞内にある超硫黄分子の測定と構造–機能相関の解明.ラマン顕微鏡を用い,生細胞内の超硫黄分子を非染色・非侵襲的で測定する.また,量子化学計算を用いて超硫黄分子の性質を明らかにする.

中林 孝和(なかばやし たかかず)

東北大学大学院薬学研究科教授.博士(理学).

略歴

1997年東京大学大学院理学研究科化学専攻博士後期課程中退.同年分子科学研究所助手.2002年北海道大学電子科学研究所助教授.14年東北大学大学院薬学研究科教授,現在に至る.

研究テーマと抱負

分子分光学的手法を駆使したタンパク質・細胞内計測手法の開発と応用,神経変性疾患関連タンパク質の毒性発症機構の解明,細胞内の分子夾雑環境と液液相分離・タンパク質の機能発現機構の解明.

ウェブサイト

http://www.tohoku-biostructchem.com

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