松尾壽之先生を偲んで
東北大学名誉教授・総長特命教授
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日本生化学会名誉会員の松尾壽之先生は,2022年6月8日,安らかに息を引き取られました.93歳でした.直前まで元気な様子でしたので,今も信じられない気持ちです.松尾先生は,ペプチドC末端決定法の開発,LH-RHの構造決定,心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)をはじめとする多くの生理活性ペプチドの発見など,ペプチド研究の第一人者として,生化学,内分泌学,医学の発展に多大な貢献をされました.
松尾先生は,東大医学部薬学科を卒業後,大学院を経て,東大薬学部助手,理研研究員を務められました.この間,天然物有機合成化学,なかでもアミノ酸のキラリティーを利用したアルカロイドの不斉合成の研究を行われました.アミノ酸のラセミ化を防ぐ条件を検討するため,α-水素の重水素交換反応を追跡している過程で,この反応がペプチドのC末端アミノ酸の分析法として応用できることを着想され,「トリチウム標識によるペプチドC末端決定法」を開発されました.ラセミ化を防ぐことを目的とした研究の中から,ラセミ化を利用したC末端決定法を生み出した松尾先生の発想力には,ただただ感服するばかりです.この研究は,松尾先生が有機化学から生化学に研究の場を移された「曲がり角」となった研究でもあります1).
C末端決定法の開発が契機となって,松尾先生はTulane大学のシャリー博士に招かれ,視床下部ホルモンLH‒RHの構造解析に取り組まれました.16万頭のブタの脳から精製された微量のLH‒RHを用いて,自ら開発したC末端決定法を駆使して,短期間でLH‒RHの構造を決定されました.その手法はパズルを解くような論理性とあざやかさに満ちたものでした2).視床下部ホルモンの発見に至るシャリー博士とギルマン博士の競争は,ノーベル賞の歴史の中でも最も熾烈な争いといわれていますが,松尾先生によるLH‒RHの構造決定がシャリー博士のノーベル賞受賞に大きく貢献したことはよく知られています3).松尾先生が当時のことを書かれた「ストックホルムへの道」は,LH‒RHの構造決定に至るピリピリとした緊張感,予想配列に基づいて合成したペプチドが活性を示したときの歓喜と安堵感,さらにシャリー博士とギルマン博士の激しい闘争心や生きざまが臨場感をもって伝わってくる名文です2).
帰国後は,阪大蛋白研で研究をされました.C末端決定法の副反応として蛋白質中のヒスチジンにトリチウムが取り込まれますが,今度はこれを逆手にとって,酵素の活性中心にあるヒスチジンのpKa値の測定法を開発されました.私が松尾先生にはじめてお会いしたのはこの頃です.当時,松尾先生は40歳を超えて無給の研究生をされていました.これほどの実績のある先生が研究生であることに驚きましたが,先生は「LH‒RHの仕事のあと,やりたい研究があって帰国したが雇ってくれるところがなくてここに居候している」と何事もないかのように言われていました.松尾先生の生き方を端的に示していると思われます.この頃,松尾先生に誘われて,よく日没までテニスをしていたことが懐かしく思い出されます.当時,松尾先生と親しく接した大学院生の多くが,後を追って研究者になりました.
松尾先生は,その後,阪大医学部を経て,宮崎医大生化学講座の教授に就任されました.LH‒RHの研究を通して,一つのペプチドの発見がいかに学問の発展を促すかを実感され,「次は,この宮崎の地で,私たち自身の手で新しいペプチドを発見するぞ」という強い意気込みでペプチド探索を開始されました.当時の心境について,「新物質探索の仕事は,成功の保証もなく,実に不安なものですが,これまで身につけた化学の基本,物質の精製と構造研究が新しい世界への壁を破る有力な方法であるという実感が強くなってきています」と書かれています4).こうして,熱湯中でのペプチド抽出法の開発(この手法により内在性プロテアーゼが失活し,ペプチドの分解と不要な分解物の産生が抑制でき,精製効率が飛躍的に向上する),高感度アッセイ法の開発,HPLCを駆使した精製など,ペプチド探索に有効な独自の方法論を確立されました.これらの手法を用いて,オピオイドペプチド類(ネオエンドルフィンなど),ニューロメジン類(NMUなど),ナトリウム利尿ペプチド類(ANP,BNP,CNP),アドレノメデュリンなど多くの生理活性ペプチドを次々に発見されました.これらのペプチドの同定は,新しい生体調節系の存在を明らかにしたものであり,内分泌学,循環器学,脳神経科学の発展に大きく貢献しました.また,橋渡し研究によって,ANPとBNPは心不全の治療薬,診断薬として実用化されました.
これらの業績により,武田医学賞,朝日賞,日本学士院賞などを受賞され,2010年には文化功労者として顕彰されました.また,国立循環器病センター研究所長,宮崎医科大学学長も務められました.
松尾先生は若手研究者の育成にも尽力され,門下からは多くの研究者が輩出されました.松尾先生の気さくで温かく思いやりの深い人柄,研究への情熱と真摯な取り組み,そして立場の違いを超えた自由闊達な会話や議論は,人を惹きつける魅力とかっこよさがあり,多くの若者が「松尾ファン」になり,いつのまにかその背中を追って研究者の道を歩んでいるのでした.
松尾先生の足跡を振り返ると,有機化学から生化学,そして医学へと広い分野にわたって研究を展開されていますが,そこには誰もが納得できるストーリー性があると感じられます.また,そこには有機化学者としての確固たる基盤,新分野に飛び込んでゆく自由さと思い切りの良さ,分野の将来を見極める先見性など,研究者に求められる要素が隠されている気がします.研究者にとって研究テーマを決めることは最も重要なことの一つです.松尾先生の足跡は,私たちにはごく自然で必然の流れに見えますが,松尾先生は次のような言葉を残しておられます.「一つの仕事の成功に,キューッと胸が痛くなるような感動を味わった直後には,次のテーマ探しに疲れ果てて,挫折し,絶望した末に,“いやいやお前には,これしか取り柄はないんだぞ”と自分に言い聞かせて,やっと立ち直るといった繰り返しだったようです.(中略)生来の怠けものの私には,新しい仕事の種は,自分自身で歩いた足跡の中に見つけるしか方法がなかったというのが,一番真実に近いようです4).」この言葉からは,悩みながらも,自らを信じ,鼓舞し,新しい研究に挑み続けた一人の科学者の姿を窺い知ることができます.研究に情熱を傾けた松尾先生の生き方を,次の世代にも語り伝えていかねばならないと強く感じています.
私たちをいつも温かく見守り,支えていただいたことに感謝の言葉しかありません.あの元気な声をもう聞けないかと思うと寂しい限りです.
最後に,心から哀悼の意を表し,松尾先生のご冥福をお祈りいたします.
東北大学名誉教授・総長特命教授
水野健作
1) 松尾壽之(1993)私の曲がり角.蛋白質核酸酵素,38(12),2082‒2084.
2) 松尾壽之(1978)ストックホルムへの道.科学,48(9),537‒547. [丸山工作編(1998)ノーベル賞ゲーム(同時代ライブラリー343),岩波書店にも再掲]
3) ニコラス・ウェイド著,丸山工作,林泉訳(1992)ノーベル賞の決闘(同時代ライブラリー124), 岩波書店.
4) 松尾壽之(1982)ある履歴書.ファルマシア,18(4),286‒287.
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