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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 96(5): i-ii (2020)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2020.96.5.i

追悼Obituary

田中啓二先生を偲んで

1京都大学大学院医学研究科

2東京大学大学院薬学系研究科

発行日:2024年10月25日Published: October 25, 2024
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Journal of Japanese Biochemical Society 96(5): i-ii (2020)

2024年7月23日,田中啓二先生が虚血性心疾患でご逝去されました.75歳でした.

田中先生はプロテアソームの研究で非常にご高名ですが,プロテアソームだけではなく,ユビキチン,オートファジーなどタンパク質分解領域全般に亘り,非常に大きな貢献をされました.あまりにも早すぎる田中先生のご逝去はユビキチン,タンパク質分解のみならず,日本の生命科学分野にとって非常に大きな損失で,関連分野の研究者として非常に寂しく残念です.

田中啓二先生は1949年(昭和24年)に徳島でお生まれになられました.子供時代から読書を楽しまれ,文学雑誌などもよく読まれておられた文学少年だったそうです.徳島大学に新設された医学部栄養学科を卒業後,酵素研究施設に着任されて間もない市原明先生の研究室に入られアミノ酸代謝研究に従事されました.

田中先生がタンパク質分解の研究に着手された契機は1980年にハーバード大学のAlfred Goldberg 博士の研究室への留学です.田中先生はタンパク質の種類によって半減期が異なることに加え,ペプチド結合の加水分解であるタンパク質分解は適切な酵素があればエネルギーは不要ですが,細胞内にはエネルギー依存的なタンパク質分解系が存在することに興味を持たれ,Goldberg博士の研究室への留学を決意されたそうです.Goldberg博士は気鋭のタンパク質分解の研究者で,優れたエネルギー依存的タンパク質分解系実験系である網状赤血球の抽出液を用いたアッセイ系を樹立されていました.しかし,決断から留学までに時間が掛かってしまい,その間にイスラエルのHershko,Ciechanover博士らがその実験系を用いて分解タンパク質の選別のためのユビキチン修飾にエネルギーを必要とすることを報告していました.田中先生が留学された時にはGoldberg研は後塵を拝していましたが,その最大の要因は酵素学的解析に習熟した研究者が少なかったことでした.田中先生は徳島大学で学んだ知識,手法をフルに活用してGoldberg研のタンパク質分解研究を破竹の勢いで牽引され,田中先生は研究室の仲間から尊敬を集められ多くの友人を作られました.田中先生はGoldberg研でエネルギー依存的タンパク質分解系では,タンパク質の選別の過程に加え,分解酵素での分解の過程にもエネルギーが必要であることを示されました.この研究を契機にタンパク質分解酵素複合体の研究に邁進されます.

徳島大学に帰学されてからも猛烈な勢いで研究を推進され,ユタ大学のRechsteiner博士らとほぼ同時期にユビキチン化タンパク質を分解するタンパク質分解酵素複合体を同定されました.その複合体をGoldberg博士とともにプロテアソーム(Proteasome)と命名され今日に至っていることは皆様もご存じの通りです.巨大タンパク質複合体であるプロテアソームは多くのサブユニットから構成されており,それまでに同定されていたプロテアーゼとは全く特徴を異にします.ある学会でその二次元電気泳動を提示されたところ,プロテアーゼとは考えられないとの強烈な指摘があったそうです.そのようなことが契機となって,プロテアソームのサブユニットの遺伝子同定などプロテアソームの構造解析に研究をシフトされます.中西重忠先生にプロテアソームのサブユニットのクローニングの共同研究を申し込まれました.ユビキチン‒プロテアソームの分野は生化学者がほとんどでしたので,田中先生は先駆者でした.ちなみにHershko,Ciechanover博士らは生化学的手法のみでユビキチン修飾系を発見しています.実際にサブユニットの遺伝子同定の成果は,田中先生の代表的な業績である免疫プロテアソーム,胸腺プロテアソームの同定に繋がります.遺伝子解析以外にもノックアウトマウス,質量分析を用いたinteractome解析なども分野で初めて導入されて大きな成果を挙げられ,プロテアソーム研究のトップランナーになられました.田中先生は,海外の研究者からも非常に高い評価を受けられ,日本のユビキチン‒プロテアソーム研究を世界レベルに押し上げられました.

田中先生は強烈な意思を持ってプロテアソーム研究を推進されましたが,それを物語る逸話を少し紹介したいと思います.プロテアソームは細胞抽出液から精製する途中でサブユニットが分離してしまうのですが,ATPを添加すれば分離が防げるので田中先生は精製のカラムワークのバッファーに添加するためにキログラム単位のATPを注文され,業者が仰天されたそうです.また中西先生への電話も非常に強烈な思いがにじみ出ており,電話を終わらせるには中西先生は共同研究の打合せを承諾せざるを得なかったそうです.実際共同研究が開始されてからも,ほぼ毎週京都に足を運ばれていたそうです.

1996年に東京都臨床医学総合研究所に異動され,名実ともに日本のタンパク質分解研究の中核を担われました.研究行政にも素晴らしい手腕を発揮され,東京都の3研究所を統合された東京都医学総合研究所の設立を陣頭指揮され,同研究所を日本のトップレベルの研究所に引き上げられました.

田中先生はご自身に対しては強いパッションを持って研究を推進されましたが,タンパク質分解の分野の発展を心から願われ,研究室メンバーや関連分野の研究者には温かく接されました.多くの研究者からの共同研究の依頼を快く応じられたのに加え,ある著名な賞の授賞式で「賞金は若い人たちとのアルコール代に使います」と言われた逸話もあるように若手研究者の育成にも心を砕かれ,本当に日本,世界のタンパク質分解研究に大きな足跡を残されました.

田中先生ご自身は開発されませんでしたが,Goldberg 博士が開発を主導されたプロテアソームの阻害剤が多発性骨髄腫の治療薬として上市されており,田中先生の知的好奇心に端を発する研究は人類の福祉に貢献する成果を生み出すに至っていることは研究者冥利に尽きるのではと想像します.田中先生,現役でactiveに研究をされておられたので,心残りも数多くおありかと存じますが,天国で昨年旅立たれたメンターのGoldberg博士とお好きだった杯を傾けて懐かしく語らっておられることと存じます.ご冥福をお祈りいたします.

京都大学大学院医学研究科 教授岩井一宏

東京大学大学院薬学系研究科 教授村田茂穂

田中啓二先生ご略歴

1949年
徳島県生まれ
1972年
徳島大学医学部栄養学科卒業
1976年
徳島大学附属酵素研究施設・助手
1981年
米国ハーバード大学医学部生理学部門・研究員(~ 1983年)
1996年
(財)東京都医学研究機構東京臨床医学総合研究所・部長
2006年
(財)東京都医学研究機構東京都臨床医学総合研究所・所長代行
2011年
(財)東京都医学総合研究所・所長

主な受賞歴

2010年
日本学士院賞
2011年
慶應医学賞
2014年
「文化功労者」顕彰
2017年
第1回日本医療研究開発大賞(内閣総理大臣賞)
2019年
Highly Cited Researchers 2019

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