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公益社団法人日本生化学会 The Japanese Biochemical Society
Journal of Japanese Biochemical Society 96(4): 427 (2024)
doi:10.14952/SEIKAGAKU.2024.960427

アトモスフィアAtmosphere

“Chance Favors the Prepared Mind”“Chance Favors the Prepared Mind”

京都大学名誉教授

発行日:2024年8月25日Published: August 25, 2024
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私は,2024年3月末をもって,京都大学大学院薬学研究科を定年退職しました.3月8日に行った最終講義のスライドを準備する際には,大学に入学してからの47年間,大学教員としての37年間を振り返ってみました.そして,私にとって幸運だったのは,入学したのが薬学部であり,学部生時代に有機化学,物理化学,生物化学,薬理学,薬剤学などに関して,浅いが幅広い基礎知識を身につける習慣ができたことだと気づきました.私たちは,薬学部生だった頃に,あまりにも多くのことを学ばなければならない薬学部のことを皮肉って「雑学部」と呼んでいました.しかし,この雑学的な基礎知識,そして雑学的なものの見方は,私の研究者人生に活かされたと思います.

私の研究室のホームページに「研究格言集」という項目を設けてあります.私の研究者としての経験をもとにして気づいたことを,研究室の学生たちなどにも知ってもらう意図で「格言集」としてまとめたものです.そのなかの一つに『棚から落ちたボタ餅を確実に拾う』(解説:セレンディピティーを確実にものにするのも研究者としての大切な資質です.)があります.過去を振り返ってみると,「この事実に気づいていなければ……」や「このチャンスをモノにしていなければ……」,自分の研究者人生は違ったものになっていたと思うことは何度かありました.つまり,とっても小さなボタ餅を何度か拾いました.そこで,最終講義のタイトル『細胞内タンパク質輸送のように長く曲がりくねった研究の軌跡』に加えて,副題として『棚から落ちたボタ餅を確実に拾う』と付けることにしました.

私は,大学院の講義などで,学生の皆さんへのメッセージとして以下のように伝えてきました.

研究を行う際には,予想される結果(仮説)を考えて,それを実証するための実験計画を立てます.予想通りの実験結果が得られれば,それをもとにして確実に次のステップに進むことができます.しかし,予想とは異なる結果が得られることは往々にしてあります.その場合には,三つの可能性があると思います.

  1. ただ単に実験の際にミスをしてしまった.
  2. そもそも予想や仮説が的外れなものであった.
  3. 予想とは異なる結果の裏には,これまで誰も考えなかったような真理が隠されている可能性がある.

私は,頻度は低い③の可能性に気づくことを『棚から落ちたボタ餅を確実に拾う』と表しました.学生の皆さんには,予期せぬ真理に気づくためには,狭い専門分野だけにとらわれていてはダメで,広範な基礎知識を身につけること,そして物事を多様な視点から眺める習慣をつけることが重要だと言うようにしています.そして,「新たな発見や発想は基礎知識がゼロのところからは絶対に生まれません.」とも付け加えます.

科学が予期せぬところから飛躍的に発展するのは,歴史が物語っています.近年の生命科学において不可欠な研究手法となったCRISPR/Cas9システムの発見,およびゲノム編集への応用はその一例だと思います.エマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナは,Streptococcus属の細菌の免疫システムについて研究する過程で,遺伝子を正確に切断するハサミを発見し,遺伝情報を簡単に変更することができるツールへと応用しました.シャルパンティエ自身は,100年以上も前にルイ・パスツールが言った“Chance favors the prepared mind”を引用しています.予期せぬ発見,および発見した現象のゲノム編集への応用は,彼女の「準備された心」に基づいていたのですね.

『棚から落ちたボタ餅を確実に拾う』よりも100年以上も前に,パスツールは同じ趣旨のことを言っていたのです.偶然の発見とその応用のためには,「準備された心」,すなわち広範な基礎知識と多様な視点から眺める習慣はやはり重要ですね.

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