いい匂いがする学問空間
東京大学大学院農学生命科学研究科教授
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「東原先生って,誰のところ出身なんですか?」と聞かれることがある.そんな時,このように答える.「日本では卒論で有機合成やって,大学院は米国で昆虫ホルモン研究をやったので,学術系統樹にはのっていなくて,あえていえばポスドクの師匠のBob Lefkowitzかな(注:生化学会名誉会員)」すると,「え~,Lefkowitz研出身なんですか?思いもよりませんでした.でも,嗅覚受容体もGタンパク質共役型受容体ですからつながっていますね.納得です」このような会話を何度かしたことがある.私がLefkowitz研を去るとき,Bobは,「ポスドクの仕事を引きずる人が多いけど,日本では独自の研究を立ち上げなさい」と言った.Bobからは大きな影響を受けたが,Lefkowitz色から抜けられたことが自信になっている.それも,帰国後に,助手の立場でありながら,自由に研究をさせていただいた芳賀達也先生や吉川潮先生のお陰である.
学問の素晴らしいところは,裏切らない自然を対象とした「純粋な研究」である.そして自由に研究ができるところが大学である.ところが,最近,学問の自由が壊れつつある.日本学術会議も一生懸命戦っているが,国立大学に関していえば,法人化が節目になっているのではと感じる.法人化によって国立大学も半分民営化され,教育機関なのに稼がないといけないという立場にされ,運営費交付金も削られ,一方で,余計な雑務が増え,数値評価のために書類まみれである.また,課題解決型あるいは戦略目標のもとに選択と集中のトップダウン型の研究費が増え,ボトムアップ型の自由に基礎研究ができる科研費は伸び悩んでいる.国立大学法人に限らず,総じて日本の研究環境は,自由な研究ができない方向性に進んでいる.
一昨年,当時の学会長の一條先生に乗せられて生物科学学会連合代表に担がれてしまったが,現在,取りまとめ役として,科研費増額のために,多くの学会連合や学協会の協力を得て,政府への要望書の提出の準備と署名運動を進めている(2024.8.7現在).そこで課題になっているポイントの一つは,国民を味方にできるのか,である.一見,勝手に自由なことをやっている研究者をサポートするなんてけしからん,と思われがちだ.しかし,一方で,自由な研究をやる環境での教育効果は高く,次の世代を創り,それが国力につながる.科研費での自由な研究を通して,本質的なクエスチョンを立てて,ベストなアプローチを選び,精密なロジックで真実を見極める,という「仕事ができる人間」を育てるプロセスが提供される.AIができない人間力を育む教育の場である.
AIになくて人間にあるものが,感性・身体性である.それは五感によって形成されるもの.現在私は五感の中でも,なくてもいい感覚の筆頭にあがる嗅覚の研究をやっている.人間にとって嗅覚は普段は意識しない感覚であるが,心地よい空間は心地よい匂い空間でもあり,ポジティブな気持ちを生む.実験科学者は,まずはポジティブに実験結果を解釈し,そのあとネガティブに考えて検証する.そして仮説が生まれ,次の実験がしたくなる.そんなデザインができる身体の感性は,まさに実験室で五感をフルに使って作業するという,自然を対象とした大学での基礎研究をやる過程で身に付くと感じる.
「専門家のようにルールを学びなさい.そうすれば,芸術家のようにルールを破れるようになる」とはピカソの言葉である.私はBobのところで「ルール」を学んだから,帰国して,リスクはあるが自由な研究ができた.もちろんそれに進んで取り組んでくれた学生さん達のお陰である.すでに現役研究者の後半に差し掛かった身として,ドラえもんの世界のような夢を見ながら遊び心を持って自由に走れる研究環境,そんな私が恩恵を受けた「ルールを破れる自由な空間」を大学に戻したい.無法地帯にはしてはいけないが,そんな「いい匂い」がする学問空間は,帰国時にBobが私に言ったように,勇気を持って研究を立ち上げることができ,AIが獲得できない健全な身体性を持った感性豊かな次世代が育つ下地になるはずである.
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