奥田先生を偲んで~志士仁人は利を求めて以て仁を害すること無し~
株式会社フォーブレイン人材開発部人材開発室室長
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2024年10月19日,奥田潤先生が享年97歳でご逝去されました.自分の利益を優先するどころか考えることすらせず,いついかなるときも後進や社会に尽くされた先生の温厚で質実なお人柄と,社会を俯瞰した珠玉の審美眼,知への純粋な探究心とご業績を私の視点から皆様にご紹介し,衷心より哀悼の意を捧げます.
私が薬学研究科に進学した当時,自然科学以外の研究は前例がなかった時代です.多くの教授陣が倫理学の研究を専攻したいと申し出た私に否定的だった中,奥田先生だけが「薬学は科学だから人との距離がある.人が科学を正しく使うために薬学と人を繋ぐ人文社会学に長けた人材が必要」とお認めくださいました.全国初の人文社会学領域の薬学研究を行うにあたり,奥田先生から「学位をもらうからには一生をかけて,社会に還元し続けなければならん.君にはその覚悟があるか?」と問われました.「覚悟はあります!」と答え,臨床生化学研究室の院生にお迎えいただきました.
まず先生は「川村くん,これを見てくれ」と古い新聞の切り抜きを見せてくださいました.それは臨床生化学の権威であった先生が,若い頃に創薬された活性型ビタミンB2製剤を取り上げた一面記事でした.当時,准教授だった奥田先生のお写真が名古屋大学の教授と並べられていたのですが,先生の髪ばかり異様に黒光りし,輪郭が凸凹してとても不自然でした.「僕はねぇ,若い頃から髪が薄かったから,教授より貫禄があるように見えちゃう.だから新聞社の人が気を遣ってマジックで僕の頭を塗り潰したんだ,おもしろいでしょ!」と大笑いしながら説明してくれました.そんな寛大な先生の愉快な自己紹介が,私の大学院生活のスタートでした.
この頃,奥田先生は研究領域を臨床生化学から薬史学に移され,薬師如来が手に乗せている薬壺の中身を分析するという,誰も気づかないけれど気づいたら気になって仕方がない,ワクワクする研究に勤しんでおられました.薬壺の研究でも全国紙の一面に取り上げられた奥田先生は,勇往邁進な一流の研究者でした.
奥田先生は論文を書くと,私に読んでおかしいところを指摘して欲しいと仰いました.より読みやすく,より正しく伝わるようにとの一心で,私はなんの忖度もなく添削し,先生の論文を真っ赤にしてしまいました.先生の論文を容赦なく学生が手を加えるなんて,普通だったら怒っちゃうんじゃないかと思いますが,先生は「君の文章は非常にわかりやすい.ご両親は文章を書くお仕事?」と仰って,私の文章力を大いにかってくださいました.私は前期課程で『薬剤師とくすりと倫理』という書籍をじほうから出版するという,文系のような業績で修了しました.
後期課程でも,奥田先生は「川村くん,一刻も早く学位を取ってくれ.僕は君が学位を取ったら大学を退く.年老いた者がいつまでも居座って若者の可能性を奪っちゃイカン」と仰り,私の学位授与から3か月後,定年を待たずして先生はご退官されました.あっぱれな有言実行です.
学位取得後,私は東大医科学研究所オーダーメイド実現化プロジェクトのメンバーに起用され,ファルマバレーで人文社会領域の委員として倫理審査を経験したり,各種学会の利益相反委員や会則検討委員を担い,数多くの規定や行動憲章を作ったりするなど,人文社会薬学を修めた者にしかできない役割を担うことができました.私が「先生はどうしてそんな先見の明があったんですか?」と問うと,「僕はねぇ,君よりもおまんまを食べとるから.それだけ!」と笑って答えてくれました.
修了後も数か月に一度は「論文はどうなってる?」「みんな元気?」とお声を聞かせてくださり,この雑誌にこういう論文を執筆したから感想を聞かせて欲しい,学会でどこの先生と登壇してこんな話をして来たと,ご近況を綴ったお手紙を事ある毎にくださいました.先生のお手紙に私の意見が欲しいと繰り返し記されていたのは,人文社会薬学という新しい学問領域の重要性です.先生は倫理を専攻した私を指導して以降,薬学が更なる発展を期するには自然科学的薬学を大切にしながら,人文社会学的薬学(薬学に必要な哲学,倫理学,歴史,教育,経済学,法と制度といった分野)を研究する人材の育成が必要であるとの思いが確信となっておられました.私への期待も相まったご意見だったと思います.
先生のご自宅には子供達が小さな頃から何度もお邪魔して,娘のようにかわいがっていただきました.一昨冬に長女とお邪魔したとき,先生は大型モニターの拡大鏡を購入して新聞や論文が読みやすくなったから1日中読んでいると,夢中でご説明くださいました.90歳を過ぎても燃え盛る学問への情熱に頭が下がりました.このとき奥様が私の長男のバイオリン,次男のチェロでコンサートを開催して欲しい,ご近所の方をご自宅に招きたいと願われました.臨床医の長男と医学生の次男の休みを合わせることがなかなか叶わない中,7月に奥田先生から恒例の封書が届きました.手紙には少し乱れた字で,先生の書いた論文を講評して欲しいと書かれてありました.「いまこそコンサートをしなければ」「直接お会いして論文のことを話そう」そんな想いの中での訃報でした.
通夜の受付台には「故人の遺志により香典は受け取りません」「置いて行かれた場合は名城大学に寄付をします」との案内がありました.奥田先生は私が知る限り,二度の大病を患っています.入院の事実を極秘にし,誰にも気を遣わせないのが奥田先生の流儀です.私がお見舞いに訪れると,先生は決まって「教え子からそんなのをもらったらおしまい」と絶対にお見舞金を受け取りませんでした.亡くなられても功徳を積まれる奥田先生らしさに感服し,溢れる涙が止まりませんでした.
30年に渡るお付き合いにおいて,奥田先生は初対面のときのまま,裏も表もない.威張ることも,欲張ることもしない.格好を付けることも,見栄を張ることもない.自然体の気品を身状を以て教えてくださったように思います.明るく,温かく,常に他者を思い遣る心優しい先生でした.お亡くなりになる3か月前まで論文を執筆し,一生涯,学問にまっすぐに向き合う真摯な姿をお示しくださいました.
先生がご構想された人文社会学的薬学という学問領域の構築は,先生が遺された私への課題であり,この領域で初めて学位をいただいた私の責務です.世の中がよりよくなるように,多くの人に役立つように.私の一生をかけて社会に還元し続ける努力を殊更にお約束いたします.天国の先生に私が教え子だったことを誇りに思っていただけるように.先生,これからもずっと見守っていてね.
最後に,奥田先生との出会いを綴った「日本薬学会>薬学と私」を御目にお留めくださり,奥田先生の追悼文を寄稿するという尊い機会をお与えくださいました関係者の皆様方に心より感謝を申し上げます.
株式会社フォーブレイン人材開発部人材開発室 室長 川村和美
他,日本社会薬学会を設立,日仏薬学会副会長,FIP臨床生物部会副会長,日本生化学会理事,日本臨床化学会理事,日本薬史学会評議員などを歴任,日本生化学会名誉会員,日本薬史学会名誉会員等々
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