
これからの生化学はどうなっていくのだろうか
国立健康危機管理研究機構国立感染症研究所細胞科学部部長
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早いもので生化学分野の研究に携わり三十数年になる.私が学部4年生で研究室に入った時の恥ずかしいエピソードからまず.基本中の基本であるタンパク質定量がうまくいかない.指導教官と並んで同じことをやっても何故か検量線がガタガタになる.当時は自分でもまったく理由がわからなかったが,繰り返すうちにいつの間にかできるようになっていた.あとで思うに,一つ一つ丁寧にやろうとしすぎて,かえって時間もかかる上に,繰り返しの操作が一定でなかったからであろう.当時,生化学の実験は,研究室の教官や先輩から直接伝授してもらう面が大きかった.論文を読んだら再現できるというわけでもなく,実験手順自体も試行錯誤が必要なことも多い.ある種のコツが必要な場面も多かった.今でこそ研究キットや実験マニュアルが充実し,誰でも失敗が少なくあるレベルの結果を出すことができるようになった部分はあるが,それでもよい研究をするためにはかなりの訓練・工夫が必要であろう.仮説がうまくいかないこともほとんどで,その面での試行錯誤が必要である状況は今でももちろん変わらない.そのように生化学の実験はどうしても時間がかかる.当時周りには数か月から1年以上をかけて一つのタンパク質の精製を行っている同僚もたくさんいた(今ではそんなことをしていたら研究費が取れず干上がってしまうだろうが).楽天的でないと研究が続けられないとも言われていたがその通りだとも思う.大学院卒業後,私は国の研究所に入所したため,シニアないわゆる職人的なプロ研究者に囲まれながら過ごした時間が長かった.それぞれが脂質代謝・輸送や,タンパク質精製・分析などの専門を持っており,「この人がやるとうまくいく」「この実験はこの人のアドバイスを聞くとうまくいく」ということがしばしばあった.そのような職人的な研究者はどんどん引退し,今ではだいぶ減ってしまった気がする.長年の研究で培われたその目に見えにくいノウハウが受け継がれないことは非常にもったいない.我々の研究所はコロナ禍により自身の研究以外の重要な業務でだいぶ忙殺される日々が続いたが,ようやく落ち着いてきた.これから10年後,20年後の生化学はどうなっているだろうかとぼんやりと考える.今年,日本生化学会は創立100周年というとてもめでたい年だが,私が経験したこの30年を振り返っても世の中の環境は急速に大きく変わった.それに応じて人間の性質もかなり変わったようである.生化学の実験は訓練が必要なのは変わりないにしても,冒頭の例のように多くの決まった作業は個別自動化技術の進歩が著しいロボットにやらせればOKであろう.AIの普及も著しい.AIに質問すれば,結構まともな答えが返ってくるし,論文の英語もグレードアップしてくれる.そのテクノロジーを生化学分野にも活用できるだろうか.研究に使えるレベルではなかなか難しい部分がまだ多いようにも思うが,例えば,職人技をAIに学習させ,職人的な研究者の分身をたくさん作ること,さらにそれを統合することができるのではないか.これまで試行錯誤を繰り返していた問題にも,AIメンターにすぐ聞くことができ,英知を受け継ぐことができる.日本は特にこの点で経験豊富な職人気質の研究者が多い強みがあるのではないか.AIを含めた様々な支援ツールが開発されスピードアップできることで,新しい独自のアイデアにチャレンジする時間が作れ,AIではできない新たなイノベーションも生まれるのではないか.そんなことを夢想していると,生化学の未来も明るいものに思えてくる.このようなプラットフォーム作りに,日本生化学会が重要な役割を果たしていけるのではないか.国際的な貢献もできるのではないかとも思う.一方,科学的な大発見は失敗や意外なところから生まれることが多い.いまだ属人的な部分が多い生化学分野では,未知の大発見がまだたくさん残っているようにも思われる.既存のツールやAIに頼りすぎず,予想外のことが起きた時の何故?を楽しんで研究を続けていくことを忘れないようにはしたい.
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