宇井理生先生を偲んで
1 東京大学名誉教授
2 武蔵野大学名誉教授
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日本生化学会名誉会員・宇井理生先生におかれましては,2025年10月27日,享年92歳にてご逝去されました.ここに謹んで哀悼の意を表します.
宇井先生は1933年,東京都にお生まれになり,東京大学医学部薬学科をご卒業後,同大学大学院に進学されました.1958年,恩師である小林凡郞先生が32歳の若さで北海道大学医学部薬学科に新設された薬効学講座の助教授として招聘された際,大学院博士課程を中退され,小林先生に同行して同講座の助手に着任されました.その後,小林先生が北里大学に異動されたのち,1964年に北海道大学薬学部薬効学講座助教授,1973年には同講座教授に昇任されました.
宇井先生は,人生の成熟期ともいえる25歳から53歳までの28年間を北海道大学で過ごされた後,1986年に出身講座である東京大学薬学部生理化学講座教授に配置換となり,1993年,60歳で定年退官され,北海道大学および東京大学の名誉教授となられました.その後は,理化学研究所特別招聘研究員,東京都臨床医学総合研究所長などの要職を歴任され,2004年以降は徳島文理大学香川薬学部長,高崎健康福祉大学薬学部長を務められるなど,私学における薬学教育の発展にも多大な貢献をされました.
恩師である宇井先生と私との出会いは,1973年,北海道大学薬学部3年次に受講した先生の講義でした.米国のサザーランド博士(1971年ノーベル生理学・医学賞受賞)がcAMPの発見に至った実験手法を平易に紹介され,真理探究の道筋を語られるその内容は,私に強烈な衝撃を与えました.翌年,私は卒業研究の場として,宇井先生が教授に昇任されたばかりの薬効学講座を志望し,幸運にも,後にGタンパク質Giの発見につながる「アドレナリンの糖代謝作用の百日咳死菌(ワクチン)投与による修飾」という研究テーマを与えていただきました.
当時の薬効学講座では,ラットの「個体」を用い,糖代謝のアドレナリン作動性調節機構に関する研究が精力的に進められていました.ラットに種々の“侵襲”を加えた際に修飾されるアドレナリン作用を,血中グルコース,乳酸,インスリン,代謝中間体などの変動を指標としてin vivoで解析していました.先輩方が扱っていた侵襲は,アシドーシス・アルカローシス,甲状腺機能の亢進・低下,寒冷暴露,強制運動負荷など,糖代謝との関連から極めて妥当なものでした.一方,私に与えられた「百日咳死菌投与」は,エピネフリンの血糖上昇作用を消失させるという既報はあったものの,やや特異な侵襲であり,当初は「似て非なるもの」という印象を抱き,その行く末に一抹の不安を感じていました.
この頃,宇井先生は本誌に総説「血糖値の交感神経性調節̶̶代謝制御機構へのin vivoからのアプローチ」(生化学47:779‒807, 1975)を執筆されました.その中で,当時の生化学を特徴づけるキーワードとして「抽出・単離・精製」を挙げ,in vitroでの還元主義的研究を「きれいな生化学」と称する一方,先生ご自身が選ばれた「個体」を用いる研究を自嘲気味に「汚い生化学」と表現されました.そして,単離精製された「要素」のみを解析してシステム全体を理解したと錯覚する還元主義科学からの脱却の必要性を強く訴えられました.侵襲によって個体を修飾し,あくまで「個体」レベルで要素を解析するという宇井先生の研究哲学は,今日の遺伝子改変動物を用いた研究に通じる,先駆的な発想であったと言えるでしょう.
「ラットと心中する覚悟で実験に励みなさい」「集中できるよう,実験中の私語は厳禁です」―こうした宇井先生の訓示と,真理のベールを剥がす研究の面白さに支えられ,私は三度の飯よりも実験を愛するようになりました.先生からは,教室内で空席となった教員ポスト(教務職員)で研究を続けるよう勧めていただき,大学院生の多い中,学部卒業直後から研究者としての道を歩むことになりました.引き続くin vivo実験から,百日咳ワクチン中にはインスリン分泌を促進する有効成分が存在することが明らかとなり,製薬会社との共同研究によりその単離が進められ,「インスリン分泌活性化タンパク質(islet-activatingprotein:IAP)」と命名されました[現在では百日咳毒素(pertussis toxin)として知られています].私はIAPの作用機序解明を志し,実験系をin vivoから臓器(膵臓灌流),細胞(単離ランゲルハンス島),さらには細胞膜のin vitro系へと展開し,結果としてIAPによる41 kDaタンパク質のADPリボシル化反応に到達しました.宇井先生の本来の志向とは異なる「きれいな生化学」でありましたが,その成果を大いに喜んでくださったことが忘れられません.これらの研究は,「インスリン分泌活性化蛋白質の作用機序に関する研究」として,1979年に北海道大学より論文博士の学位を授与され,一つの区切りを迎えました.
その後,私は米国テキサス大学ギルマン研究室に留学し,宇井先生からギルマン博士への贈り物として持参したIAPを武器に,Gタンパク質Giの精製に取り組むことになりました.帰国後,神戸大学の故・西塚泰美先生から「鴨が葱を背負って留学した」とお叱りを受けましたが,一方で宇井先生は,百日咳毒素をGi阻害のプローブとして用い,アデニル酸シクラーゼ抑制のみならず,リン脂質代謝酵素活性やイオンチャネル制御など,Gタンパク質Giが多様なシグナル伝達系に関与することを次々と明らかにされました.1994年のノーベル生理学・医学賞は,Gタンパク質と細胞内情報伝達に関する研究によりギルマン博士とロッドベル博士に授与されましたが,宇井先生はその顕著な貢献にもかかわらず,いわば「第三の男」であったのかもしれません.
宇井先生の深遠な研究哲学と教育理念は,多くの若手研究者を惹きつけ,数多くの優秀な人材を生命科学分野に送り出されました.その業績に対し,上原賞,日本薬学会賞,日本学士院賞,パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞など,数々の栄誉が贈られました.さらに2018年には文化功労者,2021年には東京都名誉都民に顕彰されています.
私は,卒業研究から自身の定年退職に至るまでの約半世紀にわたり,希有な才能をお持ちであった宇井先生のご薫陶を間近で受ける幸運に恵まれました.サイエンスの香りに満ちた教育・研究の場を共に楽しみ,感動を分かち合えた日々への感謝を胸に,ここに拙いながらもお別れの言葉とさせていただきます.
東京大学名誉教授,武蔵野大学名誉教授 堅田 利明
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