
100年後の生化学に寄せて——出会い,知の連鎖,そして未来への深化Learning from the history—2021 Yokohama
筑波大学生存ダイナミクス研究センター・高等研究院特命教授
© 2026 公益社団法人日本生化学会© 2026 The Japanese Biochemical Society
私は1984年に生化学会に入会し,学会でのポスター発表や口頭発表を楽しみに研究をしてきました.写真は1996年に参加した札幌大会での研究室メンバーや後輩達との一コマですが(図1),その後も学会は私にとって研究者として成長する場であり続けました.30年後となる2026年に,執筆のチャンスをいただけたことを大変嬉しく思います.
第94回日本生化学会大会の大会会頭を務める機会をいただき,その準備と開催を通じて,生化学・生命科学の幅広い“今”を直に見つめる貴重な経験を得ました.本稿では,その経験をもとに,学会の現在地と今後について私見を述べたいと思います.
全国に配布していただきましたが,ポスターはこの年度に研究室配属されました4年生5名が作成してくれました(図2).良く見ていただきますと,横浜の名所である赤レンガ倉庫,ランドマークタワー,ヨコハマ……ホテル,横浜マリンタワー,中華街やコスモクロック21にさまざまな工夫が凝らされています.研究室に入ってきたばかりの彼女たちが,想像力豊かに生化学のイメージを具体化してくれたのには脱帽した次第でした.
染色体の実体が理解される前[Before Chromosome(BC)]と,DNAの二重らせん構造が解かれた後[After DNA(AD)],タンパク質,糖鎖や脂質の分野において,遺伝情報にもとづく新しい研究が展開しました.このように,高分子や低分子を複合体として捉える前の黎明期[Before Complex(BC)]を経て,現在では,複合体の高次構造構築(3次元)に時間軸を加えて包括的に議論していく生命科学の進展[After Dimension(AD)]が見られています.本大会のホームページの挨拶でも述べましたが1),新型コロナウルスの世界的な流行によって,科学界にとっても2021年は大きな転換点となりました.特に,RNAの作用機序をもとにしたワクチンの開発と実際の接種が進み,病気の克服に向けた人類のチャレンジが始まった年でもあります.遺伝情報を含めた基礎研究の重要性が益々高まっていると感じ,転換期に開催される第94回の大会テーマを「Before Corona(BC),After Disease(AD)」としましたのも,このような理由からでした.
この大会は,COVID-19の影響により当初予定していたパシフィコ横浜ノースでの現地開催を断念し,完全オンライン形式での実施となりました.国内外からのアクセス性は高まり,多様な研究者が参加しやすい環境が生まれた一方で,直接的な交流や偶発的なディスカッションの機会の創出という,学術集会の本質的価値を十分に発揮することが困難であった点も私たちは真摯に受け止める必要がありました.しかしながら,オンラインならではの利点として,国際的な講演者や若手研究者が時間・場所の制約なく参加できたことは,グローバルで多様性に富んだ生化学コミュニティの構築にとって大きな学びとなりました.この経験は,“ハイブリッドな学術交流”を考えるうえでの貴重な示唆を与えてくれたと感じています.
多くのセッションやポスター発表では,若手研究者のエネルギーと独創性が明確に示されていました.学術集会は世代を超えた知の交流の場であり,若い研究者が集い,新たなアイデアを発信し,議論を生むことが未来につながると私は考えています.パンデミック下という制約にもかかわらず,オンラインならではの自律的な交流イベントが若手主導で実施されたというエピソードも聞き,希望を抱かせてくれました.
日本生化学会の大きな特徴の一つとして,長年にわたり継続されてきた支部例会の存在を挙げることができます.全国各地で開催される支部例会は,年次大会とは異なる規模と距離感の中で,研究者同士が直接顔を合わせ,特に大学院生を中心に率直な議論を交わすことのできる貴重な機会です.
支部例会では,完成された研究成果のみならず,研究途上のデータや新しい着想を持ち寄り,活発な質疑応答が行われています.特に,若手研究者や大学院生にとっては,全国大会への発表の弾みとなり,分野の近い研究者から直接助言を受けられる機会として,研究者としての第一歩を踏み出す重要な舞台となっています.
また,支部例会は地域に根ざした研究交流の場であると同時に,異なる研究室や世代をつなぐ“横の連携”を育む役割も果たしています.こうした草の根の交流の積み重ねが,日本生化学会全体の学術的厚みと多様性を支えてきたことは間違いありません.近年では,オンライン形式やハイブリッド開催の導入により,支部例会の在り方も柔軟に変化しつつありますが,研究者が互いの研究に真摯に向き合い,自由闊達に議論するという支部例会の本質は,これからも変わることはないと期待いたします.
日本生化学会は,幅広い世代と多様な専門家が集う学会であり,その学術的基盤を国際的に支えてきたのが,The Journal of Biochemistry(JB)です.JBは,1922年に柿内三郎先生によって創設され,日本発の生化学専門誌として世界に向けて研究成果を発信してきた,長い歴史と伝統を持つ学術誌です.創刊当初よりJBは,生命現象を分子レベルで理解しようとする生化学の本質を重視し,流行に左右されることなく,実験的妥当性と学術的普遍性を兼ね備えた研究成果を丁寧に掲載してきました.その姿勢は現在に至るまで一貫しており,基礎生化学から分子細胞生物学,代謝,シグナル伝達,構造生物学に至るまで,生命科学の中核をなす研究を幅広く受け入れています.
私たちも幾度となくJBに投稿して掲載していただいていますが,査読は的確に要点をつく質の高い内容で,投稿当初の内容から,受理いただく段階では確実に充実した論文に仕上がっているのを実感します.大学院生が査読結果に導かれて修正していく過程は,まさに研究者として成長していく姿を現しているだけでなく,私たち教員も新たな視点とデータの着実性の担保の秘訣を学ぶ機会となっています.また,JB論文賞も整えられており,competitiveではありますが,挑戦するモチベーションにもつながります.
JBの優れた点は,単に新規性や話題性を競うのではなく,生化学的視点に立脚した「確かなデータ」と「明確な問い」を重視する編集方針にあるのではと感じます.この姿勢は,若手研究者にとっては研究の質を磨く登竜門として,また国際的研究者にとっては,日本の生化学研究の水準と思想を理解する窓口として機能してきました.近年では,国際編集体制の強化やオンライン化の進展により,JBはグローバルな可視性を高めつつあり,その根底に流れるのは,創刊以来受け継がれてきた「生化学とは何か」を問い続ける精神ではないでしょうか.The Journal of Biochemistryは,日本生化学会の知的アイデンティティを体現する学術誌として,これからの100年においても,生化学の本質と未来を世界に向けて発信し続けていくことを願っています.
本100周年記念寄稿のテーマとして掲げられた「鑑往知来」という言葉は,日本生化学会のこれまでとこれからを考えるうえで,極めて示唆に富んだキーワードです.一方で,「温故知新」という言葉もまた,学術の世界では長く親しまれてきた重要な概念であり,両者は一見似ているようで,その視点と重心は大きく異なっているように思われます.
「温故知新」は,過去の知識や成果を振り返り,それを基盤として新たな知を生み出す姿勢を示す言葉であり,生化学がこの100年で築いてきた分子レベルの知識体系や実験技術は,まさにこの「温故知新」の積み重ねによって発展してきたと言えるでしょう.酵素学,代謝研究,構造解析の知見は,時代を超えて現在の生命科学を支え続けています.
これに対して,過去を単に学ぶ対象とするのではなく,過去の歩みを“鏡”として現在を省察し,未来の進路を主体的に選び取るという,より能動的で未来志向の姿勢を内包している言葉が「鑑往知来」です.このキーワードには,「これまで何を積み上げてきたのか」だけでなく,「これから何を選び,何を問い続けるのか」という意思が強く込められています.生化学という学問が大きな転換点に立っている今,生命現象の複雑性は増し,社会との接点も急速に広がっています.こうした時代において求められるのは,これまでの歴史を冷静に見つめ直し,その本質を理解したうえで,次の時代にふさわしい問いと方法論を選び取る姿勢ではないでしょうか? まさに「鑑往知来」という言葉が示す精神そのものであると思います.
日本生化学会がこの100年で育んできたのは,単なる研究成果の集積ではありません.分子から生命を理解しようとする姿勢,分野を越えて対話しようとする文化,若い研究者を育てようとする学術共同体としての土壌でありますが,いつか〇〇学という言葉そのものも無くなっている世界が訪れるかもしれない次の100年にどのようなサイエンスを発展させていくのか,「温故知新」によって培われた確かな基盤の上に「鑑往知来」という未来への意思を重ねることで,世界と社会に対してより大きな価値を発信し続ける姿が見えてくることを期待いたします.
1) https://www2.aeplan.co.jp/jbs2021/welcome.html
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