
生化学に魅せられて半世紀~置かれた場所で咲きましょう~
安田女子大学薬学部薬学科生命薬学講座遺伝子化学分野教授・薬学研究科長
© 2026 公益社団法人日本生化学会© 2026 The Japanese Biochemical Society
拙文を寄稿させていただくにあたり,あらためて人生を振り返り,私が今日あるは,多くの人々に支えられてきたことに感謝の念を新たにしました.
大学入学当初は薬学部を卒業して薬剤師になると漠然と考えていましたが,薬理学で卒業研究を開始し,動物実験の手ほどきをしてくれた新任助手の指導のもと気が付けば実験研究に心を奪われ,土日返上で時には朝帰りという,異様な毎日を送っていました.修士課程ではペプチドの生理活性を追究していましたが,生化学の知識不足が気になり,勇気を出して大学院博士課程医学研究科(生化学専攻)の門をたたき,酵素化学を基本から学修することになりました.研究テーマは含硫アミノ酸代謝で,当時は地味な領域でしたが,最近,生体内の硫黄原子が注目されるようになっています.学位取得後,短期大学食物科で講師として学生教育に当たりました.短期大学は設備も予算も限られていましたが,研修日に出身研究室に通い,細々と研究を続けていました.11年後,単身赴任していた夫にニューヨークのコーネル大学へ留学の話が持ち上がりました.私は,含硫アミノ酸研究会で知り合った京都大学教授のお力添えで,近くのロックフェラー大学に受け入れていただくことになりましたが,夫は留学できなくなり,私は小学生の息子を連れて留学する決心をしました.
私の運命を大きく変えたのはロックフェラー大学の佐々茂先生でした.実績不十分な私を快く受け入れてくださり,子連れ留学生の私の生活面での助言もしていただきました.現在,私の研究の中心には生命活動に不可欠な分子ヘムが位置付けられていますが,佐々先生はその分野の世界的権威で,私は迷うことなく提示された研究テーマに没頭しました.留学当初,研究室にヘム合成の第二酵素ALAD活性低下による肝障害を発症した患者の血液サンプルが送られてきました.これまでに報告されたALAD活性低下要因を調べましたが全てネガティブでした.私はALADのサブユニットあたり8個のSH基,活性体は八量体で,合計64個のSH基に着目し,本症例ではSH基がジスルフィド結合を形成したため活性を失った新規メカニズムを証明しましたが,院生時代取り組んだ含硫アミノ酸研究経験が役立ちました.
帰国後,岡山大学医学部の臨床医との共同研究が始まりました.きっかけは,佐々研で実績のある,ストレス応答分子としてのヘム分解酵素について,疾患との関係を解明したいという申し出でした.この共同研究により,臨床医ならではの観点からの基礎研究の着想が産まれ,今日の研究の発端となっています.その概要は,以前に本誌みにれびゅうとして紹介しました(生化学第79巻第5号,2007年).2008年に安田女子大学薬学部へ着任しましたが,新たな出会いによりストレス応答とヘム代謝に着目した研究を展開することになりました(「北から南から」,生化学第81巻第9号,2009年).現在,細胞内情報伝達を担うシグナル分子としての遊離ヘムの新たな機能を解明するテーマに取り組んでおり,生体内の主たる鉄含有分子であるヘムと鉄誘導性の細胞死フェロトーシスとの関連性に着目して研究を進めていますが,含硫化合物も関わっていることが明らかになりつつあります.
半世紀に渡る生化学に取り組んだ人生を振り返ると,多くの方々との出会いが私を導いてくれたことが身に沁み,感謝しきれない思いが溢れてくると同時に,2012年に出版された渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』が浮かんできます.私の人生は決して順風満帆ではなく,意図せざる方向転換を余儀なくさせられることの連続でしたが,永い目で見ると懸命に取り組んだことがどこかで必ず活かされたことが分かります.近年,人生設計の効率化が推奨される傾向が見受けられます.できるだけ早い時期に将来像を設定し,必要なことに特化した行動をとれば効率よく目標を達成できるという考え方ですが,思い通りにいかない時は自身を取り巻く環境を憂うことになります.科学者は失敗も含めて経験したことを栄養として成長し,新境地を開拓することにより学問の発展に貢献するものだと思います.経験浅き若者の選択肢は限られています.有識経験者の指導のもと,置かれた場所でこれまでの経験を活かして誠実に行動することにより斬新な着想へと発展し,新しい世界を開花させることに繋がります.
『知恩報徳』これまでに多大なる恩を受けて今日に至っていますが,その恩返しとして生化学を志す後身に報いたいと考えています.
This page was created on 2026-07-08T13:06:58.173+09:00
This page was last modified on 2026-08-18T15:47:46.000+09:00
このサイトは(株)国際文献社によって運用されています。