心を耕す
名古屋大学大学院医学系研究科教授,第95回(2022年)日本生化学会大会会頭
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神谷美恵子は前田多門,房子の長女として岡山に生まれた.1914年のことである.1923年多門が国際労働機関日本代表となり,一家はジュネーブに移る.美恵子はここで仏語の日常生活を送る.1926年帰国し,1932年には津田英学塾本科に入学した.美恵子の運命を決定づけたのは1934年のことである.オルガンの伴奏役として訪れたハンセン病療養施設多摩全生園で出会った患者たちを目の当たりにして,この人たちの役に立ちたい,医師になりたいと思う.東京女子医学専門学校受験を熱望するが周囲の諫めにより断念した.その後結核で療養生活を強いられ,死を覚悟する.独学で,イタリア語でダンテ,ドイツ語でヒルティ,ギリシャ語でマルクス・アウレリウスの『自省録』などを読んだ.1938年多門の日本文化会館初代館長就任に伴って一家はニューヨークに移る.コロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシャ文学を学び始めるが,美恵子の医学への情熱は止まない.諫め続けた多門もついに折れ,1940年に美恵子はコロンビア大学医学進学課程に入学する.翌年,第二次世界大戦開戦を危惧した家族の計らいにより美恵子は帰国.東京女子医学専門学校に編入学する.そして卒業前の1943年に岡山県長島愛生園に出会う.以降,長い付き合いとなる長島愛生園では精神医科長として医療に当たり,精神医学調査を行い,『生きがいについて』を構想した.美恵子は強制終身隔離政策を支持する立場をとったと後に批判されることもある.少なくとも美恵子には当時の状況を変えることはできなかった.しかし今も読み継がれるこの名著は,読者をして人としてのあり方を深く静かに考えさせる.美恵子は65歳に心不全で亡くなる.
現状を打破するのはいかにも難しいが,それを実現した人たちもたくさんいる.本田靖春の名著『我,拗ね者として生涯を閉ず』では「黄色い血」追放キャンペーンの顛末が語られている.輸血は近代医学,中でも外科学の発展になくてはならないものである.1964年は東京オリンピックの年であるが,それ以前の日本の輸血は売血に頼っていた.売血を生業とする人たちも多く出現し,その人たちの血は短い間隔で繰り返される売血による貧血のために黄色くなる.しかも場合によっては,非合法薬の注射器の使いまわしがあり肝炎の危険性が高まる.実際に当時の輸血では高頻度で肝炎が起こっていた.読売新聞の記者であった靖春は自ら山谷の売血常習者の列に並んで売血するなどの取材を続け,キャンペーンを張った.オリンピック前のキャンペーンは不発に終わったが,1964年のオリンピック後のキャンペーンは国を動かすうねりとなった.斯くして日本は売血から献血の国となり,輸血はより安全な医療手段に生まれ変わった.靖春はその後,新聞社を離れノンフィクションライターとなり,数々の名著を出版し,71歳にて多臓器不全で没する.
美恵子や靖春と同じ足跡を求めようにも私にはその力がない.しかも彼らは住む世界が違う,専門分野も時代も,と言い訳さえ思いつく.それでも私の心に,美恵子や靖春は何故留まるのだろう.分子の世界で,一所懸命に真理を探究し,立派な論文を書き,信頼される研究者になる.それは正しい志であり,正義でもある.いたずらに高いIFや高額の研究費に価値を見出す必要はなく,真に重要な発見を淡々と発表する.好きなことを生業にできることに幸せを見出す.ただ,それだけでは満たされない何かがある.早朝や夕刻に誰もいない道を歩く.聞こえるのは自分の足音だけ.ただひたすらに足音を聞く.日曜日,家人も音もない部屋で机に向かう.研究のこと,人間関係のこと,世の中のこと,愛や正義のこと.いろいろなことが頭の中で回転する.そしてやがて沈まる.たとえ難しい本は読めなくとも,こうして思索に没頭できる時間が少しずつ心を満たしていく.美恵子や靖春のことを考えるとき,私は自由になり,まるで難しい問いの答えを見出したかのような喜びを体験する.彼らの生きざまが私の心を動かし,満たしてくれる.研究者にとって,心を耕すことは真理を探究することと等価であると気づかされる.美恵子曰く,人生とは生きる本人にとって何よりもまずこころの旅である.至言である.
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